一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花びらが束ねられている一点(自と他)

2019年01月05日 | Weblog
 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 潔さとか簡潔とかに関連して『中論』の第三章(眼等なる根を考察することと名付けられる第三の章)の第二偈 の言葉が関心をひきました。

 「実に、それ、〈見るもの〉は、ほかなるそれこそを、すなわち自らのアートマンを、見ない。〔自らの〕アートマンを見ないもの、それは、どのように、他なるもろもろのものを見るであろうか。」

 「眼(根)等は自らを見ない。自らを見ることができないもの、それはどうして他を見ることかできるであろうか。」という意味です。眼は自分を見ることができないのから他もみることができないはずだ、ということです。分子生物学者の福岡伸一氏も、眼は他を見ることができない、と下記のように言っています。

 「ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。私たちは見ようと思うものしか見ることができない。そして見たと思っていることもある意味ですべてが空目なのである。」

 ただ、上記では、眼は他を見ることができないといっていますが、普段私たちは何の疑問もなく眼は自分を見ることはできないけれども他を見ることができると思っています。でも、ここで私はあることに気がつきました。眼が他を見ることができないといわれていることは当たっているかもしれないということに。

 眼は外に向かってしか見ることができません。外に向かって見るということは、いきあたりばったりいろいろなものを見ます。あ、こっちに楽しそうな遊園地があるから遊んで行こうとか、あ、こっちにおいしそうなブドウがなっているから食べていこうとかです。際限なく欲望がおこります。そうするとその次に逆に手に入れることができない怒りやみじめさの感情が起こってきます。このようにマイナーな感情が起こるということは、本来の何かを見る手段ではないのではないかということです。

 以上のように眼が本来の見る手段ではないのならば、いったいどういう手段があるのでしょう。

 わたしは、それを猫をみているともっているように見受けられます。だって猫の目には怒りやみじめさはありません。マイナーな感情が起きない見る手段をもっているのです。猫は眼は見る手段としてはつかっていますが、さらにその上に自と他を同時にみることができる別の手段をもっているとしか思えません。猫のジーッと哲学している姿を見ると何かと交信信しているように思えてなりません。自分の情報と他との情報を交信して二つの中でマイナーな感情が起きない折り合いのつく情報を得ているのです。

 上記の『中論』の言葉のように(眼は自も他も見ることができない。)ということは、眼以外の自も他も同時にみることができる真実な手段があるということを示唆しているのでしょう。