話題の本、渡辺淳一著「鈍感力」を読みました。
この本では“鈍さ”が必要だと書かれていますが、私はその上に“幹”がなければ、“鈍く”はなれないな、と思いました。
「正法眼蔵」の坐禅のことを、瑩山(けいざん)禅師は『覚触(かくそく)』という語で表しています。はっきり覚めて現実に触れることです。
また、「正法眼蔵 坐禅箴」の巻に次のように書かれています。
「事ニ触レズシテ知リ、縁ニ対セズシテ照ス」
「事ニ触レズシテ知ル、其ノ知自ラ微ナリ」
「縁ニ対セズシテ照ス、其ノ照自ラ妙ナリ」
「其ノ知自ラ微ナリ、曽ツテ分別之思無シ」
(具体的に何かというものに触る、目で見る、音で聞くというふうなことではないけれども、何となくわかるものがある。その何となくわかるものは、本で読んでわかったとか、頭で考えてわかったとか、人に聞いてわかったとかいうことではなく、坐禅をしておるときに、どことなく自分に触れてくるものであるから、その内容というものは、言葉では表現できないほど、微妙な内容を持っておる。)(注)
坐禅をしている時に何となくわかるものは、言葉では表現できないほど微妙な内容を持っているものなので、はっきり覚めて微妙なものを感じ取る“鋭さ”がなければならないはずです。
この本には、人の言葉に傷つかないとか、図に乗る才能とか、恋愛や結婚生活を続けるにも鈍感さが必要だと書かれていますが、“幹”に自分の行動の基準となる微妙なものを感じ取る“鋭さ”があってはじめて、鈍感力が出て来るのではないかと思います。
注:西嶋和夫「正法眼蔵提唱録 第五巻上」金沢文庫106~107頁。
西嶋和夫老師のブログhttp://gudoblog-j.blogspot.com/
この本では“鈍さ”が必要だと書かれていますが、私はその上に“幹”がなければ、“鈍く”はなれないな、と思いました。
「正法眼蔵」の坐禅のことを、瑩山(けいざん)禅師は『覚触(かくそく)』という語で表しています。はっきり覚めて現実に触れることです。
また、「正法眼蔵 坐禅箴」の巻に次のように書かれています。
「事ニ触レズシテ知リ、縁ニ対セズシテ照ス」
「事ニ触レズシテ知ル、其ノ知自ラ微ナリ」
「縁ニ対セズシテ照ス、其ノ照自ラ妙ナリ」
「其ノ知自ラ微ナリ、曽ツテ分別之思無シ」
(具体的に何かというものに触る、目で見る、音で聞くというふうなことではないけれども、何となくわかるものがある。その何となくわかるものは、本で読んでわかったとか、頭で考えてわかったとか、人に聞いてわかったとかいうことではなく、坐禅をしておるときに、どことなく自分に触れてくるものであるから、その内容というものは、言葉では表現できないほど、微妙な内容を持っておる。)(注)
坐禅をしている時に何となくわかるものは、言葉では表現できないほど微妙な内容を持っているものなので、はっきり覚めて微妙なものを感じ取る“鋭さ”がなければならないはずです。
この本には、人の言葉に傷つかないとか、図に乗る才能とか、恋愛や結婚生活を続けるにも鈍感さが必要だと書かれていますが、“幹”に自分の行動の基準となる微妙なものを感じ取る“鋭さ”があってはじめて、鈍感力が出て来るのではないかと思います。
注:西嶋和夫「正法眼蔵提唱録 第五巻上」金沢文庫106~107頁。
西嶋和夫老師のブログhttp://gudoblog-j.blogspot.com/