一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「鈍感力」...

2007年07月29日 | Weblog
 話題の本、渡辺淳一著「鈍感力」を読みました。
 この本では“鈍さ”が必要だと書かれていますが、私はその上に“幹”がなければ、“鈍く”はなれないな、と思いました。
 「正法眼蔵」の坐禅のことを、瑩山(けいざん)禅師は『覚触(かくそく)』という語で表しています。はっきり覚めて現実に触れることです。
 また、「正法眼蔵 坐禅箴」の巻に次のように書かれています。
 「事ニ触レズシテ知リ、縁ニ対セズシテ照ス」
 「事ニ触レズシテ知ル、其ノ知自ラ微ナリ」
 「縁ニ対セズシテ照ス、其ノ照自ラ妙ナリ」
 「其ノ知自ラ微ナリ、曽ツテ分別之思無シ」
 (具体的に何かというものに触る、目で見る、音で聞くというふうなことではないけれども、何となくわかるものがある。その何となくわかるものは、本で読んでわかったとか、頭で考えてわかったとか、人に聞いてわかったとかいうことではなく、坐禅をしておるときに、どことなく自分に触れてくるものであるから、その内容というものは、言葉では表現できないほど、微妙な内容を持っておる。)(注)
 坐禅をしている時に何となくわかるものは、言葉では表現できないほど微妙な内容を持っているものなので、はっきり覚めて微妙なものを感じ取る“鋭さ”がなければならないはずです。
 この本には、人の言葉に傷つかないとか、図に乗る才能とか、恋愛や結婚生活を続けるにも鈍感さが必要だと書かれていますが、“幹”に自分の行動の基準となる微妙なものを感じ取る“鋭さ”があってはじめて、鈍感力が出て来るのではないかと思います。
 

注:西嶋和夫「正法眼蔵提唱録 第五巻上」金沢文庫106~107頁。


西嶋和夫老師のブログhttp://gudoblog-j.blogspot.com/

過去からの自立

2007年07月24日 | Weblog
 野良猫の親子がマンションの庭で遊んでいるのが見えました。冬の日だまりの中で子猫達が親猫のしっぽで遊んだり兄弟どうしでじゃれあったりしていました。本当に楽しそうでした。私はそれを見ていたら涙がでてとまらなくなりました。野良猫なのでこれからのことを考えたらかわいそうで、涙がでたのもありますが、一瞬たりとも不安から解放されて本当の安心のなかでの時間がもてない自分にも涙がでたのです。
 「正法眼蔵 発菩提心」の巻に次のように書かれています。
「もし刹那消滅せずば 前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば 後刹那の善いまだ現正すべからず。」(もしもこの世が生まれては消え生まれては消えしているような瞬間瞬間の存在でないならば前の悪がいつまでたっても消え去ることはできない。そして前の瞬間における悪がまだ立ち去ってない場合には後の瞬間における善が現実の世界に現れていくことができない。)(注1)過去の悪が消え去らなければ今の本当の安心は得られないと言っているのでしょう。
 また、「正法眼蔵 弁道話」の巻に次のように書かれています。
「この坐禅人、確爾として身心脱落し、従来雑穢の知見思量を切断して、天真の仏法に証会し、・・・・・・。」(注2)(この坐禅をしている人は、確実に本当の自分がでてきて、従来もっていた雑多不純の認識や思惟を切断して、自然かつ真実の仏教的宇宙秩序を体験・理解し、・・・・。)(注3)
 坐禅をすることで、過去のいやな経験の記憶、恨み、ねたみ、が消え去って過去に束縛されない‘いま’が現れると言っています。
 これら二つの引用から次のことが言えると思います。前の瞬間における悪が立ち去ってない場合は後の瞬間における善が現実の世界に現れていくことはできないけれども、坐禅をすることによって、この過去の悪の従来雑穢の知見思量を切断することはできる。
 私が坐禅をやり続けてるのも、日だまりの猫になりたいだけなのかも知れません。

注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第9巻 6版」金沢文庫202頁・205頁
注2:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第一巻 9版」金沢文庫20頁
注3:西嶋和夫「正法眼蔵を語る 弁道話」金沢文庫91頁参照
  

他からの自立

2007年07月22日 | Weblog
 野良猫は、危険をおかしてもプライドを捨てても恥をかいても、えさを貰うことの方が重要です。でも私の目からは、プライドを捨てたり恥をかいているようには見えないどころか、誇り高いようにさえ見えます。ぜったいにえさを貰っている人の奴隷になってないことは確かです。我が家の猫は、夫が晩酌をするときにつまみの刺身とかを貰えるので、ビールの缶を開ける音がすると走って来ます。でも夫の帰宅の玄関の音がしても知らん顔です。気が向いたときだけニャーニャー夫にごまをすっています。
 これに対して人間は、えさを貰う人の言葉や態度に傷つけられています。
 なぜえさを貰っている人の奴隷に、猫はならなくて人間はなるのか、ずっと考えていました。人間は、自分というものの存在価値、存在根拠、存在確認を、自分以外のもの、たとえば財産、仕事、他人の評価など、他との関係においてばかり生きているから傷つくのではないでしょうか。
 猫は現実の目の前に見えるものと自分の心身からでる直観だけで行動します。
 人間も他との関係においてばかり生きるのではなく、頭の付いている分坐禅で調整した直観と目の前に見えるものに従って生活していくことが、他人に傷つけられない方法の一つということを私に教えてくれています。
 「正法眼蔵 行事(下)」に次のように書かれています。「いたづらなる小人、広大深遠の仏法と、いづれのためにか身命をすつべき。」(注)
 この「正法眼蔵」の言葉は、他との関係において生きて命をすり減らすのではなく、小さな自分の思いを超えた無量無辺の大自然的生命が働くところからの声で生きる方に自分の命をすてなさい、ということだと思えます。

注: 西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第5巻」金沢文庫207頁

西嶋和夫老師のブログ

未来からの自立

2007年07月15日 | Weblog
 前回のブログの「所不能知」で(アタマより現実の目の前に見えるものに従って生活する方に賭けて遊んでみたい。)と書きました。そのことを考えながら猫を見ていたら気が付いたのです。私は心の奥底で、今の生活じゃないもっとましな将来の自分の幸せを期待して、賭けていたのです。問題なのは今の生活を多少否定していることです。腹をくくってないことです。
 猫は、将来の幸せのために今を生きているのかなと考えたら、絶対にそんなことはない、と確信したのです。今、目の前のことだけで完結しています。それってすごい自立だと思ったのです。未来からの自立です。人間は将来のえさをおいて頑張ります。今、目の前の汚れた皿を洗うのも将来楽しいことをするため、勉強するのも大学受験のため、だけでは今がみじめだと思うのです。
 「正法眼蔵 弁道話」の巻に次のように書いてあります。
「靜中の無造作にして、直証なるをもてなり。」(注1)(静かに、何もしないで、ジーッと坐っていることが坐禅だと。それが釈尊のさとりだといっておられる。そのことを、直接の体験であると。坐禅をしているときには理屈はいらない。頭で考える、自分の心で感じる、そんなことは要らない。静かな中にジーッとすわっていることが「さとり」。だから直接の体験だと。」(注2)「さとり」のために坐禅をするのではなく、坐禅していることが「さとり」であるというのです。
 未来からの自立のためには、今を完結しなくてはいけません。そのためには現実の行為の場で坐禅のときの直接の感じで生活していくことだと「正法眼蔵」では言っています。今を、いさぎよく生きることを、猫が教えてくれています。

注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第一巻9版」金沢文庫20頁
注2:西嶋和夫「正法眼蔵を語る 弁道話」金沢文庫104頁

「所不能知」

2007年07月10日 | Weblog
 今日の朝、夫が友達のことを愚痴っていました。すると私はさっそく、その友達の度量が狭いだとか、アタマの中でその友達のことを分析し出したのです。でも、待てよ、と即座にアタマの声がしました。このアタマの分析は現実を見るための妨げになるような気がしたのです。
 「正法眼蔵 法華転法華」の巻に次のように書かれています。
 「法華転を所不能知に尽行成就なるのみなり」(宇宙の運行というものは、理屈ではわからない、非常な神秘的な姿で、実際に完成される状態である。)(注)
 私は何を聞いても見てもすぐアタマが働き出します。そしてアタマの中で納得が行くまで止まらなくなります。でも、現実は非常に神秘的な姿で、理屈で考えたよりも完璧な姿で完成されるというのです。私はアタマの理屈よりも、現実の目の前に見えるものに従って生活する方に賭けて遊んでみたいと思います。

注:西嶋和夫「正法眼蔵提唱録 第3巻上」金沢文庫129~130頁。

西嶋和夫老師のブログ

自然な人間関係

2007年07月04日 | Weblog
 「正法眼蔵」に出会う前の私の人との付き合い方は不自然なものだったと思います。
 今では、無理をしてまで嫌いな人と付き合っていたいと思いませんし、ステキな人がいても、無理をしてまで親しくなりたいとも思いません。
 良寛さんの詩に次のようなものがあります。
 「花は心無くして蝶を招き、蝶は心無くして花を尋ぬ。花開くとき蝶来り、蝶来る時花開く。吾も亦人を知らず、人も亦吾を知らず。知らずして帝の則に従う。」(花は招こうという気持ちもなく自然に蝶を招き寄せ、蝶は訪ねようという気もなく自然に花を訪ねまわる。しかし花が開くときには蝶が来るし、蝶が来るときには花が開く。そのようにわたしもまた他の人の気持ちを知らないし、他の人もまたわたしの気持ちを知らない。知らないながらも自然のなりゆきに従って出会いが行なわれる。)(注)
 私にとってその出会いが自然のなりゆきかどうかは坐禅が教えてくれます。坐禅を通して何かざわざわするときは、その人との関係が自然なものでないと気が付くのです。本当はそんなに楽しくないお喋りを楽しいと思い込もうとしていたり、価値観が違うのに相手の価値観に合わせようとしていたり、自分が傷付けられることを言われても目をつぶっていたりです。毎日坐禅をするようになるまでは自分でも気が付かなかったことに、気が付くようになりました。
 自然な人間関係とは、どちらからともなくお互いに惹かれ合って付き合って行くことではないかと思っています。良寛さんの詩にある「帝の則に従う」なのではないでしょうか。
 無理をしてまで親しくなりたいと思っていた心の底には、この人だったら私の寂しさや退屈を紛らわせてくれそうだから、無理をしてでもこの人と付き合いたいという気持ちがあったのだと思います。でも、この世はもともと寂しいと、「正法眼蔵」には書いてあります。その寂しさを何かで紛らわせようとしないで、とことん寂しさの中からの声を聴く方が自然なのです。寂しさや退屈を見ないようにしていれば、現実の寂しさや退屈さを味わい尽くした後に来る最も大切なものを見ることができないでしょう。アタマの計らいをしなくてもよい心の平安(「正法眼蔵」では涅槃と言っています)と、日常生活を淡々と送って行ける力が、人生では大切ではないかと思えるのです。良寛さんの上の詩は孤独を透過した後でなければ作れなかった詩なのではないでしょうか。

注:松本市壽「良寛 乞食行脚」光文社128頁。