一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「ゼロ(0)」

2013年07月01日 | Weblog
 私は最近ゼロ(0)とは何かと問われたときに、一般的な答えと仏教の答えには差があるのではないかと思うようになりました。

 一般的には、ゼロというと、そこに何もない何もしないということです。

 仏教的には、ゼロというと、あるべき状態にあって何の違和感も感じないのがゼロではないかと考えています。

 私たちの生活というのは、お金がなくなれば食べるものも買えなくなって違和感をかんじるし、風呂に入らなければ臭くなって違和感を感じます。人間関係も自分の精神状態が落ち込んだり逆にはしゃぎすぎたりすると、他人が自分から離れていって違和感を感じます。それら違和感がなく日常生活が滞りなく回るのが仏教的なゼロです。何もしないでゴロゴロしている一般的なゼロではありません。

 一般的なゼロは単に物がない動いてないということだけをいっています。

 それに対して仏教的なゼロというのは、必ず何かと相対してゼロを考えます。その相対しているものとは、私は流れだと考えています。電車に乗っていると外の景色が動いているように感じます。でも本当は自分が動いているんですね。もし、外の景色と電車に乗っている自分が同じ速度で動いていれば、自分は全く動いてないと感じますよね。仏教で聖者に入った位を預流果といいます。流れに自分を預けられたら聖者になれるというくらい、流れを私たちの拠り所としています。

 一般的なゼロというのはエネルギーなないことですが、仏教でいうゼロというのはものすごいエネルギーがいります。電車の外の景色が動くのと同じだけのエネルギーがいります。そのため無駄なエネルギーをつかわずエネルギーを蓄えるために修行をします。

 仏教でいう「空(くう)」という何もない何も感じないというのは、流れと同じ速度で動く仏教的なゼロをいうのであって、一般的なゼロを基準にしてこの世を憂いて何もしない虚無論者をいっているのではないと思います。