一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「金土蔵」

2012年09月12日 | Weblog
 『佐藤可士和の超整理術』という題名の本が大好きで、ときどきぺらぺらめくっています。いつも仏教と似ているなと感じているのですが、どこが共通点でどこが違う点なのか、言葉にしようとするとなかなかできません。

 『佐藤可士和の超整理術』のなかに次のような文章があります。

 「情報をどう整理するかによって、相手に伝わる精度は格段に違ってきます。その際いちばん大切なのが、自分なりの視点を持ち込んできっちり筋を通すこと。大切な情報をしっかり見極め、情報同士の因果関係をクリアにしていくことで、進むべき道が見えてくるのです。つまり、情報の整理とは、視点を導入して問題の本質に迫ることで、真の問題解決を行うためのものなのです。」

 それらを対比させるために、唯識思想が書かれた『摂大乗論』のなかの「金土蔵」の喩えを引用します。

 「地界の中に於いて、土は実有に非ずして、而も現に可得なり。金は是れ実有にして、而も可得ならず。火に焼錬せらるる時、土の相は現ぜず、金の相は顕現す。又た此の地界の、土として顕現する時は、虚妄の顕現にして、金として顕現する時は、真実の顕現なり。是の故に地界は是れ彼の二分なり。」

 「金土蔵」の喩えには『佐藤可士和の超整理術』にはない二つの動きがあります。

 まず、火に土が焼かれるというのが、でてきます。火というのは無分別智のことです。般若の智慧ともいえます。この無分別智を月とたとえて次のような言葉が『大乗荘厳経論』になかに書かれています。

  「恰かも水の容器が壊れたときには月の影が見られないが如く、
 此の如く、過ある衆生に於ては佛の影は現はれない。」 

 無分別智は、私たちが水のこぼれる壊れた容器から水のこぼれない容器にかわらなくては見ることができないといっています。仏教の整理術は、火が必要なので、私たちが変わらなくてはいけないことが必要とされます。

 また土が焼かれて初めて金が顕現する、というのが『佐藤可士和の超整理術』にはでてこない動きです。

 すべて目の前にあるものが否定されて、本物があらわれだすということです。すべてのものが否定されて顕れ出されたものとは。私はそれは言葉であらわすことのできないその場から醸し出される「気配」をさしているのではないかと思うのです。その気配とは、寂静で、透き通っていて、自分の襟を正させられるような気配です。

 問題解決のために本質を見いだすという点が二つの共通点ですが、仏教では、火でやきつくすために、修行を通して自分のステージを上げなくてはいけないということ、また「気配」を醸し出すこと、言い換えれば、「気配」がなければそれは整理されたものとはいえないこと、この二つが『佐藤可士和の超整理術』とは異なる点かな、と自分なりに言葉にしてみました。