尽十方界、是自己光明。
《尽十方界、是れ自己の光明》
尽十方界、在自己光明裏。
《尽十方界、自己の光明裏に在り》
『正法眼蔵 光明の巻』の光明に関する部分について私なりに書いてみたいと思います。
光は一秒間に地球の周りを七周半回っているといわれています。また光とは「エネルギーの塊(かたまり)」だと、アインシュタインは発表しました。素粒子が、「エネルギーが集中した場所」で光は「エネルギーの塊」です。
また、菩薩の修行の段階に十段階あって、その三番目の段階は「発光地(ほっこうじ)」といわれています。そしてどうして「発光地」と名付けられたかについて『解深密教』に次ぎのようにいっています。
「能く無量の智光(を発する)の依止と為るに由って、是の故に第三を発光地(ほっこうじ)と名く。」
これによると、光を智ととらえています。そうすると、私たちの智慧は、一秒間で地球の周りを七周半回っていることになります。
私たちの智慧がそのくらいのスピードで回っているとしたら、もしリンゴを見ていたとしても、それがリンゴと認識するまえに、ましてや言葉をはっする前に、智慧はリンゴの前を通り過ぎてしまうはずです。
そうすると菩薩の修行をしてめざしている智慧というのは、直感ということになります。言葉にする前に身体で観じる直感ということになります。
修行者は、一秒間に地球のまわりを七回り半まわるだけのエネルギーの塊を自分の身体のなかに蓄えなければ智慧はでてこないことになります。
修行者が、それより少ないエネルギーの量しかないと回るスピードが遅くなって、あ、リンゴだ、おいしそうだな、とリンゴの前でもたもたすることになってしまいます。
もたもたして何で悪い、となりますが、私たちはリンゴだけに執着していれば、何かがおろそかになってしまうような、全体をみなければ決断がくだせないような世界に生きています。一秒間に地球の周りを七周半回らなければ全体をみれないような世界に住んでいるのかもしれません。
「エネルギーの集まり」レベルのエネルギー量では、目の前にある素粒子の集まりのものをすべて対象としてもたもたして、本当に対象としなくてはならないものを見逃してしまいます。
「エネルギーの塊(かたまり)」レベルのエネルギー量で、直感という智慧を発して本当の対象をつかまなくてはならないと思うのです。
《尽十方界、是れ自己の光明》
尽十方界、在自己光明裏。
《尽十方界、自己の光明裏に在り》
『正法眼蔵 光明の巻』の光明に関する部分について私なりに書いてみたいと思います。
光は一秒間に地球の周りを七周半回っているといわれています。また光とは「エネルギーの塊(かたまり)」だと、アインシュタインは発表しました。素粒子が、「エネルギーが集中した場所」で光は「エネルギーの塊」です。
また、菩薩の修行の段階に十段階あって、その三番目の段階は「発光地(ほっこうじ)」といわれています。そしてどうして「発光地」と名付けられたかについて『解深密教』に次ぎのようにいっています。
「能く無量の智光(を発する)の依止と為るに由って、是の故に第三を発光地(ほっこうじ)と名く。」
これによると、光を智ととらえています。そうすると、私たちの智慧は、一秒間で地球の周りを七周半回っていることになります。
私たちの智慧がそのくらいのスピードで回っているとしたら、もしリンゴを見ていたとしても、それがリンゴと認識するまえに、ましてや言葉をはっする前に、智慧はリンゴの前を通り過ぎてしまうはずです。
そうすると菩薩の修行をしてめざしている智慧というのは、直感ということになります。言葉にする前に身体で観じる直感ということになります。
修行者は、一秒間に地球のまわりを七回り半まわるだけのエネルギーの塊を自分の身体のなかに蓄えなければ智慧はでてこないことになります。
修行者が、それより少ないエネルギーの量しかないと回るスピードが遅くなって、あ、リンゴだ、おいしそうだな、とリンゴの前でもたもたすることになってしまいます。
もたもたして何で悪い、となりますが、私たちはリンゴだけに執着していれば、何かがおろそかになってしまうような、全体をみなければ決断がくだせないような世界に生きています。一秒間に地球の周りを七周半回らなければ全体をみれないような世界に住んでいるのかもしれません。
「エネルギーの集まり」レベルのエネルギー量では、目の前にある素粒子の集まりのものをすべて対象としてもたもたして、本当に対象としなくてはならないものを見逃してしまいます。
「エネルギーの塊(かたまり)」レベルのエネルギー量で、直感という智慧を発して本当の対象をつかまなくてはならないと思うのです。