一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花びらが束ねられている一点(あたたかいこころ)

2018年10月08日 | Weblog
 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 ある一点にシュッと束ねられているというのはこういうことではないかと以下に書いてみようと思います。

 まず、以下のようではないかと思った発端はネコのクーちゃんのネットを見てからです。ネコのクーちゃんが認知症の柴犬のムギちゃんに寄り添っていろいろ助けてやっているネットです。犬のムギちゃんがよろよろ歩こうとすると倒れないように支えになろうとします。またいつも寄り添って添い寝をしてあげます。ネコのクーちゃんは義務感でやっているわけでもないようで犬のムギちゃんが好きだからそうしたくてやっているようです。二匹ともその状態に満足していて明日もまた一緒にいたいニャーとテロップにでています。
 
 私もいま、後ろ足の股関節が外れてしまって歩けなく寝返りもうてない老犬の介護を一年近くしています。他に誰もみてくれる人がいないからと仕方なく介護をしていました。最初は自分のやりたいことはなるべく続けたいと、無理して続けてました。でも、だんだん、犬がかわいそうとかお金がかかるとかで、自分のやりたいことはやめざるを得なくなりました。でも全部やめてしまってしばらくして、私がやりたいことって本当に必要だったのと思うようになりました。

 老犬のこんなにいやでつまらないものと思っていた介護の中で、老犬の私に対する思いやりや、こんなことまで感じているのかと、今まで思ってもいないことに感激しています。

 老犬は夜寝ているときに、私をおこしてはまずいと思っているらしくて、ゲボゲボしながらもどうにか一人で我慢しようとしてギリギリまでムグムグと必死になっています。また一時間近くかかる動物病院にカートに乗せていくときも、じっと動かないで私を困らせないようにじっとしていてくれています。かと思うと、私がだっこしているとき、新聞でも読もうとすると急に鳴きだして新聞を読むなというのです。自分から関心がそれるとおもしろくないようなのです。そのように本来あらねばならない相手を思いやる気持ちとか私をみてちょうだい気持ちとかはあるのです。

 また先日老犬をカートにのせて病院に行く途中あたたかい言葉を行きと帰りにかけてもらいました。おばあさんからは、「しあわせな犬ね。体はかわいそうだけど、こんな雨の日にまで病院に連れて行ってもらえて。」と、とてもやさしい口調で言ってもらえました。また、帰りの電車のなかでは先月自分の犬を亡くされたというおじいさんが、いろいろ話しかけてくれて、最後に「長生きするんだよ。」と何度も犬に話しかけてくれました。

 シュッと束ねられているある一点というのは、こころがお互いに流れあってあたたかい気持ちになることではないのかと、ネコのクーちゃんのネットをみたり老犬の介護をとおして思うようになりました。そして、それは自分のやりたいことを全部やめなくては得られないのではないかと。自分をなくして何も期待しなくなったときに、自分がしたいことをしていた時よりもっとあたたかいものを得られるのではかいかと。