一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(無色。・・・・・・無智亦無得。)

2008年10月30日 | Weblog
 私は太極拳を少々やってるんですけれども、最近気が付いたことは、太極拳をしているとき私の目が泳いでるんです。太極拳の先生は、まず動くほうを見ないと体もそっちのほうに動かないと言うのですが、あれ、今度右手だすのか左手だすのか、と考えた瞬間目が泳いでしまいます。手をだしてから、目がついてきます。

 猫は目が泳いでいません。私みたいに、右手だすのか左手をだすのか考えていたら目が泳いだなんてほんの一瞬でもありません。それはそれは正確にコンスタントに目の前のことをとらえています。

 猫が目が泳いでないのは、一瞬で完結しているとらえ方をしているからではないでしょ
うか。瞬間瞬間変わるデジタルの写真画を一瞬でみるとらえ方です。私も他人も物もなくいっしょくたんに目の前の世界をパッととらえます。

 デジタルのとらえ方をしたら、自分がはいってくる余裕はありません。だから猫には自分が傷つけられたとか、自分がかわいそうとか、自分を楽しませようとかがないようです。そんなことを考えた瞬間目が泳ぐはずですから、目が泳がないところをみると、猫はそんなめめしいことは考えてないのです。
 
 真実はこの一瞬しかありません。過去も過ぎ去ったものであるし、未来もまだきていません。だから私も他人も物もなく、いっしょくたんにパッパッパッパッとらえたものが真実なんだと思います。

 「無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味触法。無限界。乃至無意識界。無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。」の12個の無いというのは、真実の世界ではデジタルの写真画のように今この瞬間の私も他人も物もないいっしょくたんにパッパッパッととらえたものだけが真実なので、上記の12個は無いのだとあえてとらえています。
      

般若心経(是故空中。無色。)

2008年10月22日 | Weblog
 我が家の猫はいま窓のところでジーッと哲学しています。くだらないことにとりあわず、一目で宇宙全体を感じているようです。

 それに比べて私は、夫の言葉にいらいらしています。私の夫が、私に「あの名刺を捨てなかったか」と言ったのです。私は何でも無くなると私のせいにしてと腹が立ちました。でも待てよ、と思ったのです。

 猫をみていたら、そんな名刺をすてた汚名に一喜一憂するような狭い視野でものを見てエネルギーを消費するのは、損ではないかと思ってしまいました。

 「空」の世界はあらゆるものが関係しあっているととらえられています。自分も物事も他との関係で決まってきます。そうすると、夫の言葉だけを区切ってみていることは、他の部分が見えなくなってしまうので猫にとってはくだらないことなのではないでしょうか。猫にとって何よりも大事なのは一目で全体をとらえることのようです。実在する時間はいまこの瞬間しかないからです。猫の哲学しているようなジーッとしているのをみていれば、一目で全体をとらえることがなによりも大事ということがわかります。

 猫が窓のところでジーッと哲学しているのをみたら、物質もこころも超越した、‘なにか’を感じていると思えてなりません。「是故空中。無色。」というのは一目で宇宙全体をとらえたときは、物質(色)とかこころ(受想行識)とか超越した‘なにか’なので、「無色」(物質ではない)なのではないかと言っているようにも解せるのです。

般若心経(不増不減)

2008年10月16日 | Weblog
 うちの猫はどこかに行きたいというときに、閉じこめられて出られないときは気が狂ったように出たがります。何時間でも鳴き続け、最後は私が根負けします。猫は他者には服従しないとか、自分の意思に反することなんか絶対しないと言われていますが、私ははっきりとなぜそうなのか、納得いきませんでした。

 でも最近、養老孟氏の言葉、「『「入力』はすべて知覚、つまり五感からです。『出力』は筋肉だけなんです。」をみつけて、これかなと思いました。

 違う部屋で缶詰をあける音でもしたら、筋肉をつかって走ってくるのが猫にとっては自然なのです。それが、途中で中断されてしまうということは、猫にとってはおさまりがつかず、とにかく筋肉をつかって部屋から出られる方法を探っているわけです。

 「『「入力』はすべて知覚、つまり五感からです。『出力』は筋肉だけなんです。」の言葉は私にとってもこれかな、とピンときました。

 風呂に入ったあと、石けんがあちこち飛び散っていたり毛が落ちているのが目に入ります。そうすると他にやってくれる人がいればいいのですが、自分しかやる人がいないと風呂掃除をしなくてはとなって、毎日風呂掃除をするわけです。いつもいやいややるのですが、ところが風呂掃除をしたあとは実に爽快なのです。どんなに心配ごとがあっても、風呂掃除をしたあとはしゃっきりするのです。そして次ぎの仕事をする気になります。

 自分の目にうつってなんかきれいにしないと気持わるいなって思ったものは、自分が手を動かしてやるのがやった後が一番気持がさわやかです。今までお金があればお手伝いさんがいて家事をやってもらって、自分は好きな事をし放題したいと夢見ていましたが、どうもそうではないようです。

 生き甲斐をもちましょう、とよく聞きますが、これが私の生き甲斐だなんて自分に思い込ませようとした瞬間になにか不安になります。この世の中が流れという仏教的なとらえかたをすれば(法はさんずいに去ると書きます。水が去る、流れていくということです。「色」(物質的現象として存在するもの)は流れです。)、言葉でとらえた瞬間に、とらえたものはもう流れ去っています。だから生き甲斐なんていう言葉で自分を納得させようとしても目の前の世界は不安がなくなるような世界ではないのです。

 自分の目にうつって(五感が知覚して)こうしないと気持わるいなって思ったものを、自分の手を動かしてやるのが、私にとっては猫同様一番不安が残りません。

 「不増不減」は目の前の世界を言葉でつかまえて納得させようとした瞬間、法に反する余計なものを増やしてしまう、増やしてしまった分本当のものを逃してしまうということも含まれているように思います。

 

 

般若心経(不垢不浄)

2008年10月11日 | Weblog
 私は坐禅以上の清浄さはなく、坐禅以下の不浄さはない、ととらえています。

 養老孟氏が「人間の『「入力』はすべて知覚、つまり五感からです。『出力』は筋肉だけなんです。」(注)と言っていましたが、坐禅も当にジーッと坐って五感で外の世界をとらえ,坐相を保とうと筋肉をつかっているだけです。

 坐禅をしているあいだに、いろいろな思いや感情が浮かんできますが、それを追わず五感で外の世界をとらえています。坐禅をしているときは考えを振り払おうとしなくても浮かんできたなと気がつけば自然に考えはおちます。またすぐ考えは浮かんできますが、その繰り返しです。坐禅のあいだ何も考えが浮かばないということは生きている人間にはありえません。

 では浮かんできた考えを追わなかったら、情報がなかったら生活していけないだろうとなりますが、人の言葉は情報としてはちゃんと身体のどこかにストックされていると思います。自分が意識するしないにかかわらずストックされています。そして外の世界を五感でとらえたときに、自動的に必要な情報はストックされたなかから選ばれてでてくるはずなのです。

 だれかに「バカッ」と言われたとします。そうすると私たちはもう「バカッ」と言われたほうに関心が集中して外の世界なんかぜんぜん眼中になくなります。でも「バカッ」と言われようが何と言われようが、外の世界を感じるほうを優先します。「空」の世界ではあくまでも『入力』は五感なのです。「バカッ」と言われたことは、自分からどうにかしようとしなくても自動的に自分の身体のストックにはいっています。その情報は消化され自動的に必要なときに必要な行動となって出てくるはずです。

 「空」の世界ではあくまでも『入力』は五感なのです。言葉で曇ってしまっていない五感です。そして『出力』は筋肉です。身体を動かしたり、顔の表情をつくったり、姿勢を保つことです。

 ここで大切なのは、『入力』したものを『出力』することです。五感で『入力』したものを『出力』しなくては身心が汚れてしまいます。五感でとらえても、筋肉を動かさないと汚れてしまいます。ペルソナみたいに仮面をかぶって無表情をしていてはストレスがたまります。テレビをみているだけでもストレスがたまります。

 逆に、『入力』なしの『出力』だけでも身心が汚れます。目に見えたもの等五感で感じたものを無視して、かってに頭でこうしようとして行動することなどです。

 「空」の「不垢不浄」は神様みたいな現実離れの清浄さではなく、目の前の現実と自分の身体でもって『入力』と『出力』をきちんとして汚れないないようにすることだと思います。

注:南澤道人「道元禅を生きる」四季社 20頁




般若心経(不生不滅)

2008年10月05日 | Weblog
 「不生不滅」のとらえ方として、私はまず宇宙をこのようにとらえています。主要元素が合成したり分解したりあっちこっちへ移動しているだけで宇宙全体としてみたら何一つ新たなものを生み出したりなくなったものはない。

 ただ移動しているだけにすぎない。回環しているだけにすぎない。空気の移動が風だったり、水分の移動が雨だったり雲だったりです。

 千の風になって、という歌が流行っていますが、死んでから千の風になるのでなく、生きているうちも私たちは千の風なのだと思います。

 私たちの体の分子も身体のなかで作りだしてるものではなく、外からとりいれたものを分解して私たちの体の分子を合成しそれを体中回して、外に出しているだけです。

  私たちも風になれるのは、外の世界をとりいれてそれを私たちの体中回し、外に出すときです。

 養老孟氏が次のように言っていました。

 「人間の『「入力』はすべて知覚、つまり五感からです。『出力』は筋肉だけなんです。」(注1)

 五感(知覚)で外からとりいれたものは、筋肉を動かさないと出ていかない。頭のなかにとどめておいて体を動かさないと出ていかない。逆に体を動かさないと本当の五感は働かない。

 私たちが風になれるには、必ず外の世界とつながった輪にならなくてはなりません。風というのは流れることです。だから外の世界をとりいれ、それを筋肉を動かすことで出さなければ風は流れません。考えるということは、外と切り離された脳の内部の「小さな輪」にすぎません。パターン化されたものをぐるぐる動かしているだけです。脳の内部の「小さな輪」では淀んでしまって風になれないのです。

 外の世界をとりいれて出して風とおしを良くしてやれば、私たちの身体は自動的に宇宙いっぱい駈けめぐるようにできているのです。

 「正法眼蔵」につぎのような言葉があります。

 「群生のとこしなえにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらわれず」(注2)

 (一切の生物が自分を受けとり使い切っているとき、狭い視野でものを見てない。無限大のひろさの世界にすんでいるわけだから、その無限大の大きさで物事に対処している。)(注2)
  
 「不生不滅」ということは、この世の中がただあらゆるものが関係し合うことによって循環しているにすぎなく、目の前の世界はいろいろなものが移動するさいに生じる現象にすぎない、また私たち自身も自然の流れの一部であるととらえています。

注1:南澤道人「道元禅を生きる」四季社 20頁
注2:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第一巻」金沢文庫 13頁
参照:福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書