一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「貪汚」と「人工的紛い物」

2008年03月31日 | Weblog
 13世紀に書かれた「正法眼蔵」と福岡伸一著「生命と無生命のあいだ」(注)で読んだ1940年代に発見された分子生物学の説がとても類似していてびっくりしています。

 両方に共通なのが、全体でとらえるということと、人工的なものが入ってしまうと、全体でとらえられなくなってしまうというです。

 私たちの身体は壊れるまえに壊して再構築をおこなっている動的平衡の流れであるというように、瞬間瞬間傷ついた分子や異常の発生した分子を壊して再構築しているようです。ですから全体がみえてないとそれらの傷ついたり異常のある分子を見過ごしてしまいます。われわれの身体は自然に全体の異常をキャッチできるように作られているようなのですが、人口的な紛い物である、自分が勝手につくりだした思量とか自然以上や以下の快楽の追求をしていると、どうも身体の一部の異常が見えなくてそのまま身体の内部に廃物が蓄積されてしまって、病気になってしまったり、不安な気持になったりするようです。

 「正法眼蔵」ではやはり人工的なものが入ってしまったときに、全体でとらえられなくなるといっています。自分から貪って勝手につくりだした思量で行動したり、何かに執着していると目の前の世界を汚してしまい全体がみえなくなってしまうと書かれています。駅に吉永小百合のポスターがありました。そこにこのようなことが書かれていました。「あたまを空っぽにしたら、大事なものが満ちてきた。」大事なものとは全体をとらえているときの人間本来の安心感ではないでしょうか。

注:福岡伸一「生命と無生命のあいだ」講談社現代新書

「清貧」

2008年03月19日 | Weblog
 私は良寛さんが、寺の住職にもならず、説法をするでもなく、托鉢だけで人里離れた庵で暮らしたのか、なぜあれほど人間が生きていくうえで、ぎりぎりの貧しい暮らしを望んだのか、はっきりとわかりませんでした。良寛さんが望めば寺の住職にもなれなだろうし、書を売ればいくらでも売れたのに、あえて托鉢だけに頼って生きました。
 私は、最初は「正法眼蔵」に『小欲知足』という教えが書いてあるので、あえてそういう貧しい生活をしているのかと単に思っていました。でも良寛さんは、誰よりも修行時代に修業したと言われています。それは自分で身体から納得した真理を知りたかったからだと思うんです。ただ単に「正法眼蔵」に書いてあるからでは良寛さんは納得しなかったでしょう。良寛さんが自分の修行をとおして身体の底からこれが真理だというものをつかんだから、人里離れたあばら屋で一人で托鉢だけをして暮らしたと思うんです。
 修行をとおして掴んだ真理とは、「空そのもの」への還帰ではないでしょうか。眼の前に展開する世界を個々としてとらえるのではなく、全体として世界を体得すること、直感的に把握することです。何言っているのだ、私たちはリンゴでも見える側しか見えなくて、裏は見えないだろうと考えますが、そういう感覚器官ですべてがとらえられるという意味ではなくて、身体が全体を感じとるというとらえ方です。全体とは、目にみえるもの、耳にきこえるもの、肌で感じるものはもちろんですが、自分でも意識できないもの、感覚器官でとらえられないものまで含まれます。
 修行する前の私たちは全体として世界を体得していません。一部しかみてないのです。自分で見たり聞いたり考えたりする対象を作りだすと、その部分に関心が集中して全体として世界がみえなくなってしまっています。瑩山禅師が『坐禅用心記』のなかで、「一切為さず、六根作すことなし」と説かれているように、六根といわれる眼耳鼻舌身意などの感覚器官を、身がまえて自分からつかわないことが全体として世界を体得することです。だから、自分から身がまえて対象を作りだすと、全体として世界を体得できず、みえてない部分をつくってしまいます。全体がみえてないと、自分が今何をしたらよいのか、きちんとした判断ができません。
 良寛さんは、全体として世界を体得すること、直観的に把握することができるように、対象のない生活を目指していたと思います。そのため寺に縛られることも嫌い、お金や名誉からも離れ、人間関係のしがらみも最小限にし、清貧のなかで生きようとしたのでしょう。良寛さんの歌をみていると、見えるままにし、聞こえるままにし、思うままにした人でなければかけない歌だなあというのが数多くあります。

 木の葉散る森の下屋は聞き分かぬ
   時雨する日も時雨せぬ日も
  (木の葉が散ってくる森陰の草庵にこもっていると、時雨の降る日も降らない日も同じ音がして、聞き分けることができない。)(注1)

 この歌などは、何かに気をとられたり、考え事をしていたりしていてはできない歌ではないでしょうか。
 
注1:倉賀野 恵徳「意訳蓮の露」山喜房仏書林

「余力有レバ」 

2008年03月11日 | Weblog
 うちのマンションの隣にキリスト教の教会があります。そこに次のように書かれていました。

 「愛は今日始まります。
  今日誰かが苦しんでいます。
  今日誰かが飢えています。
  私たちの働きは
  今日という日の為にあるのです。」

 キリスト教では、今日愛のために働きなさい、といっていますが、自分が充たされなくて、人のために愛を示せるのか私は疑問です。私と重なって読んだのが青山七恵著「ひとり日和」のなかの次ぎの文です。

 「私は話を盛り上げようとはしなかった。ダンボールから衣類を取り出して、伸ばし、またたたんでいくおばあさんの背中を見て、いたわってやらなければいけないんだろうな、と、苦々しく思う。」(注1)

 自分が充たされてないのに、愛を示せといわれても、重荷です。

 それと対照的に「正法眼蔵 阿羅漢」には次ぎのように書かれています。

「己ガ力量ニ随ッテ受用シ、旧業ヲ消遺シ、宿習ヲ融通ス。或ハ余力有レバ、推シテ以テ人ニ及ボシ、般若ノ縁ヲ結ビ、自己ノ脚跟ヲ錬磨シテ純熟ス。」(注1)

 生まれた境遇、時代、環境、受けた教育、ならった風習、してきた習慣、生きてきた経験、その他すべて偶然的なものの寄せ集めの自分を解体した「本当の自分」になって、その「本当の自分」の力量に応じて自分を享受に活用し、もし余力があればさらにその影響を他人に及ぼし、自分を錬磨して十分な成熟を期するのが阿羅漢である。(注3)

  「正法眼蔵」の上記の文を見る限り、過去の業のない「本当の自分」になるほうが第一で、他人に影響を及ぼすのは、あくまで余力があればといっています。

 私は、「正法眼蔵」にはやさしさがあるように思えます。「余力有レバ」という言葉にとてもやさしさを感じるのです。

注1:青山七恵「ひとり日和」文芸春秋(平成15年3月号)367頁
注2:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 93頁
注3:同上 95~96頁参照