一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「苦」の世界

2011年05月12日 | Weblog
  六世紀に真諦に訳された『大乗起信論』を読んでいたら、「人々が苦悩から解放され、究極の安らぎを得てほしいと願うからこの本を書いた」と書いてありました。

 「究極の安らぎ」?安らぎには少しの安らぎ、中くらいの安らぎ、究極の安らぎ、といろいろなランクがあります。私が仏教をはじめたのも、「究極の安らぎ」なんて大それたものを求めたのではなく日常生活がすこしでも楽にまわしていけたらいいな、というほんの少しの安らぎを求めてはじめたものだったかもしれません。

仏教は「中道」が教えの一つであり、両極端を避ける教えでもあるし、一か百かの考え方はこどもの考え方とバカにされる考え方でもあり、そのなかで「究極の安らぎ」をこの本を書く一番の理由にもってきてるのは、「中道」と「究極の安らぎ」のつながりはどうなっているのだろうと考えてしまいました。

 私は、それを、エネルギーの視点から考えてみました。

 私たちは、安らぎを得るために、ああしたらいいんじゃないかとか、こうしたらいいんじゃないかと安らぎを求め続けてもがき続けています。また、ある年になると、自分の思い通りにならないのが人生だから、私は今の現実生活にそこそこ満足していると現実を正当化するために,無理矢理現実生活が安らぎだと思い込もうとしています。でも、それが、「安らぎ」でしょうか。
 
 エネルギーの視点からいえば、「究極の安らぎ」は私のエネルギーが100%あるときだけに得られると考えられます。「一の法界に達せざるを以っての故に、」と書かれているように、私たちのエネルギーが足りなくて法界に一致してないから、その隙間に安らぎを感じられない負の感情が芽生えてしまうということです。

 なぜ、エネルギーが100%に満たないようになってしまうのでしょう。それは「心」があるからだといわれています。「心」があるから安らぎが得られない?「心」とは、ある対象に向けて働く精神作用だといわれています。その対象が外的であろうと内的であろうと関係なく動いていく精神作用である、といわれます。「心」を動かすとエネルギーが減ってしまいます。

 私たちは、何かをみれば、「心」が動き出します。だれか人とすれ違えばあの人は知っている人だから挨拶をするべきかどうかとか、あの人はイケメンだけどジロジロみるのもなんだからチラッと見ようとか、「心」が動きだします。また、なにか過去のことを突然思い出すとそのことに関してまた「心」がこうでああでと働きだします。

 何かを見て心を動かす、こころの中に湧き上がってきた思いに心を動かす、は私たちが朝起きてから夜寝るまで無意識のうちにやっていることで、心を動かさないことができることは想像もつきません。

 でも、「心」を動かさない方法が一つだけあるのをエネルギーの視点からみると教えてくれています。それは私たちが取り囲まれている媒体と一体になることです。魚は水の中で一生を過ごす。水中で生まれ、四六時中水中で過ごし、水中で死ぬ。魚たちはおそらく、自分が、水という極めて重く、粘度の高い液体の中で生きていることに全く気づいていない。魚たちは自分たちを取り囲み、自分たちを載せている「媒体」の存在を認識できないのだ。私たち人間もまた常に何らかの媒体に取り囲まれ、それに載せられて生きています。

 「媒体」と一体のエネルギー量があれば、「媒体」の存在を認識できないので、「心」を動かさないでいられるわけです。

 私たちに残された「安らぎ」は「少しの安らぎ」や「中くらいの安らぎ」といった安らぎを選択できる悠長なことをいっていられるようなものではなく、「媒体」と一体となる「安らぎ」しか選択肢は残されてない「苦」の世界なのかもしれません。

 私たちは、そんな苦しい世界はいやだ、少しの安らぎでもいいから欲しいと、どうしても「心」を動かしてそれにすがりつこうとしたくなります。でもそれが、業・カルマをつくりだしもっと自分を生きづらくしていきます。

 仏教でいう「中道」というのは、私たちが取り囲まれている媒体と一体になって行動しているエネルギーが100%のある世界をいうのであって、私たちがこの苦しい世界から逃げまわって「安らぎ」と思っている安らぎのランクの「中」をあらわしているのではないと思います。

 今うちの猫がのんきに足や身体をなめ回しています。それを見ていると「安らぎ」ます。私は、その「安らぎ」は「安らぎ」にすがりつこうとするのをやめたときに得られる「究極の安らぎ」ではないないかと思うのです。