一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「覚悟」

2016年05月20日 | Weblog
 私は最近「縁起」について考えていて気がついたことがあります。それは、あたまが造作したものを私たちは本物だと思って受け取っているということです。

 なんであたまはそういう造作をするんだろうと理由を考えてみると、サンスクリット語のなかにヒントがありました。

 サンスクリット語で、存在するという動詞を表す語根はブゥリット(vrt)といって、転がる・回転するという意味になっています。それに対して、あたまの働きをグラハ(grah)といって、つかむ.執るという意味になっています。

 サンスクリット語が作られた紀元前5世紀頃には、存在するものというのは、転がる・回転すると考えられていたことがわかります。一瞬も留まってないものを表しています。時間を例にとるとわかりやすいと思います。時間はつかむことはできません。あ、今だ、と思ってつかもうとしたその瞬間すでに過去になっています。だから、私たちのいる現実の世界は転がる、あるいは、流れていてつかむことは出来ない世界です。

 それに対して、あたまの世界は、つかむことを働きとする世界とサンスクリット語では考えられていました。
 
上記からすると、私たちのいる現実の世界は、転がっていて一瞬も留まっていません。一瞬一瞬壊されては生じています。なにかが生じたと思ったらもう壊されていて一瞬も留まっていません。ですから、私たちは、休むことができません。でも。あたまが常に休みたいのです。あたまは、ちょっとでも機会があれは、それをつかまえて休もうとします。

 あたまは、休めない現実の世界をうけいれられなくて、常に休もう休もうとして、造作して、私たちに私たちの世界は何かをつかんで休んだほうが楽しいよ、と私たちをそそのかすのです。

 それらをみると、私のなかには、相反する二つの働きがあることになります。つかめない世界とつかみたい世界です。確かに、自分のことを考えてみても、ショッピングをしてると、あれも欲しいこれも欲しいと楽しくて仕方なくなります。その反面なにもないすっきりとした部屋に意味もなくあこがれます。

 最近私が興味をもっているミニマリズムに関連させてこのことを考えてみると、ものをつかまないということは、要するにものをもたなくするということは、紀元前5世紀頃にすでにあたまをもつ人間の性として規定されているつかむと反することになり、かなり難しいことになります。だから、ものをつかむの反対の、ものをつかまないを狙っても、ミニマリズムにはなれないことになります。

 では、どうすれば、ミニマリズムになれるのか。あたまが休みたいよと言ってものをつかもうとするのだから、私は、休まないで現実の休まない世界と向き合ってやっていくぞと、覚悟をきめるしかないのかもしれません。

 私は、仏教の「縁起」の世界は、覚悟をきめる世界だと思います。

  仏教では、「縁起」を主な教義としています。「縁起」の定式は、次のようにいわれています。

 「これあるにより、かれあり
 かれ生ずるにより、これ生ずる
 これ滅するにより、かれ滅する。」

「縁起」で二つセットで私たちが向き合わなければいけない世界は、休みたい休みたいというあたまに欺されないで、目の前の世界をきちんとみすえて現実の世界をのりきってやるぞ、という覚悟の世界だと思うのです。


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