カーネーションの花をなにげに見ていたら、花びらを束ねられている一点に気をとられました。ある一点に花びらが納められてられているのを見るとなぜか安心感を感じます。そんなことを感じながらある一点をみながら、これって「ゼロ」と関係あるんではないかとふと思いました。
なんである一点にすべてが納められているのに「ゼロ」と関係あるんだろうと思いますが、仏教でいう「ゼロ」というのは、私たちが目の前にものがあるかないかの「ゼロ」とは違って、あるものとの相対関係で「ゼロ」とします。
たとえば電車が走っている速度と電車の外の景色が同じ速度で動いていれば、こころが気を取られるものがないので「ゼロ」とします。また、綱引きで左右どちらも同じ力で綱を引けば、綱の中心は動かないのでこころが気を取られるものは何もありません。そのように互角の力がある状態でこころが気を取られるものがない状態を「ゼロ」と仏教では捉えるような気がします。
それに関連したことで、禅の澤木老子が次のようなことをいっています。
「得処とかサトリとかいうことは、理知的にワカッタということではない。どんなことが来ようが、生きようが死のうが、カッチリ動かぬことである。よう安心とは苦しみをなくしてしもうて、楽しみばかりになることじゃと思うておるが、そんなことではない。どんな苦しみが来てもバタバタせず、びくつかぬことである。安心のない人間のすがたをみたければ、ネズミをコブチ(ネズミ取り)に入れてみればいい。バタバタバタバタかけずりまわる。人間はそれを見ながら猫にくれてしまう。猫はよろこんでそれを食うてしまいよる。そうすりゃバタバタしただけは損だということがようわかる。しずかに坐禅しておりゃいいんじゃ。」
苦しくても不安でも落ち込んでもそれらを納めて坐禅している姿、それをカーネーションの花びらが束ねられている一点に重ねて私は安心感を感じたのかもしれません。すべてを納めているけれども、こころはなにも気を取られるものがない「ゼロ」の状態,それをカーネーションの花びらが束ねられている一点に私は見ています。
なんである一点にすべてが納められているのに「ゼロ」と関係あるんだろうと思いますが、仏教でいう「ゼロ」というのは、私たちが目の前にものがあるかないかの「ゼロ」とは違って、あるものとの相対関係で「ゼロ」とします。
たとえば電車が走っている速度と電車の外の景色が同じ速度で動いていれば、こころが気を取られるものがないので「ゼロ」とします。また、綱引きで左右どちらも同じ力で綱を引けば、綱の中心は動かないのでこころが気を取られるものは何もありません。そのように互角の力がある状態でこころが気を取られるものがない状態を「ゼロ」と仏教では捉えるような気がします。
それに関連したことで、禅の澤木老子が次のようなことをいっています。
「得処とかサトリとかいうことは、理知的にワカッタということではない。どんなことが来ようが、生きようが死のうが、カッチリ動かぬことである。よう安心とは苦しみをなくしてしもうて、楽しみばかりになることじゃと思うておるが、そんなことではない。どんな苦しみが来てもバタバタせず、びくつかぬことである。安心のない人間のすがたをみたければ、ネズミをコブチ(ネズミ取り)に入れてみればいい。バタバタバタバタかけずりまわる。人間はそれを見ながら猫にくれてしまう。猫はよろこんでそれを食うてしまいよる。そうすりゃバタバタしただけは損だということがようわかる。しずかに坐禅しておりゃいいんじゃ。」
苦しくても不安でも落ち込んでもそれらを納めて坐禅している姿、それをカーネーションの花びらが束ねられている一点に重ねて私は安心感を感じたのかもしれません。すべてを納めているけれども、こころはなにも気を取られるものがない「ゼロ」の状態,それをカーネーションの花びらが束ねられている一点に私は見ています。