一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花の中心(ゼロ)

2017年12月13日 | Weblog
 カーネーションの花をなにげに見ていたら、花びらを束ねられている一点に気をとられました。ある一点に花びらが納められてられているのを見るとなぜか安心感を感じます。そんなことを感じながらある一点をみながら、これって「ゼロ」と関係あるんではないかとふと思いました。

 なんである一点にすべてが納められているのに「ゼロ」と関係あるんだろうと思いますが、仏教でいう「ゼロ」というのは、私たちが目の前にものがあるかないかの「ゼロ」とは違って、あるものとの相対関係で「ゼロ」とします。

 たとえば電車が走っている速度と電車の外の景色が同じ速度で動いていれば、こころが気を取られるものがないので「ゼロ」とします。また、綱引きで左右どちらも同じ力で綱を引けば、綱の中心は動かないのでこころが気を取られるものは何もありません。そのように互角の力がある状態でこころが気を取られるものがない状態を「ゼロ」と仏教では捉えるような気がします。

 それに関連したことで、禅の澤木老子が次のようなことをいっています。
「得処とかサトリとかいうことは、理知的にワカッタということではない。どんなことが来ようが、生きようが死のうが、カッチリ動かぬことである。よう安心とは苦しみをなくしてしもうて、楽しみばかりになることじゃと思うておるが、そんなことではない。どんな苦しみが来てもバタバタせず、びくつかぬことである。安心のない人間のすがたをみたければ、ネズミをコブチ(ネズミ取り)に入れてみればいい。バタバタバタバタかけずりまわる。人間はそれを見ながら猫にくれてしまう。猫はよろこんでそれを食うてしまいよる。そうすりゃバタバタしただけは損だということがようわかる。しずかに坐禅しておりゃいいんじゃ。」

 苦しくても不安でも落ち込んでもそれらを納めて坐禅している姿、それをカーネーションの花びらが束ねられている一点に重ねて私は安心感を感じたのかもしれません。すべてを納めているけれども、こころはなにも気を取られるものがない「ゼロ」の状態,それをカーネーションの花びらが束ねられている一点に私は見ています。

カーネーションの花の中心(虚妄)

2017年12月04日 | Weblog
 カーネーションの花びらはある一点から出ているのと、アットランダムにあっちこっちから出ている差を考えていて、こういうことではないかとふと思いました。

 ある一点から出ているということは、ある一つのものがいろいろに変化して他のもののように見せて別個なものだと私たちをだましているけれども、実は根っこは同じだということです。

 昨日寝ながらふと考えてました。うちの猫は二匹とも死ぬときは本当に身ひとつで死んでったよな、と。それと、カーネーションの花びらがある一点からでているのとなにか関係があるような気がしてその関係を明らかにしてみたくなりました。
 
 猫は、目にみえない根っこの一点を見据えていて、その一点がいろいろ変化していて私たちをだまそうとしているのに気がついていたから、その変化しているものは無視してある一点をジーッと観じていたのではないかと思うのです。

 私が今なにをしようというときに、音楽を聴くとかテレビをみるとか本を読むとかします。でも猫はそういうことはしないでジーッと虚空を観じています。また私はお金が欲しいおいしいものが食べたい洋服が欲しいとうろうろしているときでも、猫はジーッと虚空を観じています。

 仏教を悲観主義といったり、欲望を無理矢理抑えつけるものだと捉える人もいます。でも猫をみていると本当に愛らしい。私は猫にこの世の中ってこんなに愛らしいものなのかと教えられました。根っこの一点がいろいろなものに変化して私たちをだましているという根っこの一点を外したらそれはただの悲観主義になってしまいます。根っこの一点があることがわからずに、別個別個のものがただ目の前にあると思ってそれを追いかけて生活すれば苦しいものになってしまいます。

 猫がじーっと見つめていたものわたしもそれをみつめてみようと、なにかどうしようもなく袋小路にはいったようになす術もなく苦しいときに私を救ってくれるのが、その一点なのです。