一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「あ、そうだね。ワンワンだね。」

2015年11月02日 | Weblog

私は毎朝犬の散歩をします。そうするとどの子供も「あ、ワンワンだ。」といいます。「あ、ワンワン」と子供がいうと、一緒にいる親が「あ、そうだね、ワンワンだね。」と答えているのを耳にします。それを聞くと、私はとても温かい気持ちになります。

 そういう会話は当たり前のことなのですが、私の今の世界は、と考えてみるとどうなのでしょうか。

 普段の私の会話といえば、社交辞令な挨拶や会話・当たり障りのない会話・道徳的、慣習に従った言葉・あいての顔色を窺った相手に合わせた会話・人と違ったことを言えば浮いてしまうのでなるべく目立たないような会話です。

 これでは、相手と会話が成り立っていますが、その会話のなかには上で言った「あ、ワンワン」「あ、そうだね、ワンワンだね。」と答えてもらって、満足した子供の気持ちはありません。その会話には、相互のこころの流れがないからです。ただ言葉のやりとりしかありません。

 でも、私がこうして当たり障りのない会話をしている世界を当たり前の世界として「ゼロ」としています。でもはたしてこれが「ゼロ」の世界なのかと最近疑問がでてきました。

 子供が「あ、ワンワン」といって何も親に答えて貰えなかったら、子供のこころのなかには寂しさや怒りがたまります。マイナスのこころがたまります。これはけっして「ゼロ」ではありません。

 普段の私は、「あ、ワンワンだね。」という相手からの答えを期待しない自分一人で完結している世界にいるような気がします。他人との当たり障りの無い会話もそうだし、自分のあたまのなかでこうしようああしようと考えることもそうです。たとえば、、今日は時間ができたから新宿に遊びにいって、そばでも食べてと、朝予定を組み立てたりです。基本は私一人のところにおいてそれを「ゼロ」としていました。そこからなんらマイナスのこころがでてくることにきがつきませんでした。

 でも、上記の親子の「あ、そうだね。ワンワンだね。」の会話を聞いていて気がついたのです。人間っていうのは一人では完結できるほど強くはないのではないかと。私だってすごくきれいなものを見たり、感動的なことを目にしたとき、「あ、あれって、すごいね。」って言いたくなります。でもそのとき、答えてくれる相手がいなかったり、相手から何の反応もなかったり、期待はずれの答えが返ってきたりしたとき、寂しさや怒りを感じないでいられるとは思いません。

 私は、「あ、ワンワン」「あ、そうだね。ワンワンだね。」と親子のこころの間に流れる状態こそが「ゼロ」ではないかと思うのです。そこには、寂しさや怒りのマイナスは生まれません。こころが原点にたちかえられる「ゼロ」の地点です。

 今日の朝、うちの猫が私に、あれやれこれやれと催促しにきます。撫でてというので撫でてあげます。撫でていてふと気がつきました。猫というのは、ひとりで完結している状態は無いのではないかと。必ずわたしとのあいだに流れをつくろうとします。ひとりでいるときだって、ジーッとしている姿をみると猫はなにかと流れているのです。