一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「猫の純粋な目」

2015年06月28日 | Weblog
紀元2世紀頃龍樹によって書かれた論書『中論』に、「縁起」が、論における〈言い表されるべき意味内容である〉と書かれています。『中論』は仏教の教義の真髄が書かれているといわれてますので、「縁起」は仏教の教義の主な柱であることは疑う余地がありません。

 「縁起」の定式は、次のようにいわれています。

 「これあるにより、かれあり
 かれ生ずるにより、これ生ずる
 これ滅するにより、かれ滅する。」

 これでわかるように、「縁起」は必ず二つでセットです。

 この二つのセットと一つではどういう差があるのか。そこの差に仏教でいってる教義の面白さが凝縮されてるような気がして、挑戦してみたくなりました。その二つのセットと一つでは、どういう差があるのか、いろいろな例をあげて書いてみたいと思います。

今日は、最初のブログで書いたなぜ私が猫の目に惹かれるのかを、その二つと一つの差の視点から書き直してみたいと思います。

 「猫の魅力を一番感じるときは、何と言ってもあの混じりっ気の無い目で見詰めてくれるときです。ごはんをくれと催促するときでも遊んで遊んでと見上げるときでも私が何かをしているのを眺めているときでも目と目が合ったときでも、それぞれの瞬間は百パーセント私と向き合ってくれています。」と、前のブログで書きました。

 私は、いつも猫はなんであんなに純粋に私のことを見てくれるんだろうと、うまく説明できないでいました。でも、この二つと一つの差の視点からみたときに、猫の純粋な目は、二つセットの世界のもので、私のいやな目は、一つだけの世界のものだからではないかという点が思い浮かんだのです。

 何かとセットでない一つだけの世界というのは、私が中心にいて、見ようと思えばなんでも見ることができます。見ることができるものは無限に拡がっています。でも、なんでも見ることができるということは、100%自分がいま見るべきものをみているかどうかという確信がもてないことです。常に不安がつきまとっています。私の目というのは、常にこういう不安のつきまとう目をしていると思います。

 それに反して、二つのセットの世界・「縁起」の世界は、坐禅のときのように沈黙のうちに、ある世界と向き合っています。だから、自分中心に外に向かって無限に拡がる目ではなく、逆に、ある世界があって、その世界に何を見るか決められているということです。
要するに、二つセットの縁起の世界というのは、ある世界とセットで私たちはあることで、ある世界によって、私たちは制約されていることです。

 制約されているというと、自由がなくて苦しいほうを考えてしまうけれども、猫の目をみていると美しいなと思ってしまいます。逆に、狙い所がパシッとしていて潔いとか凛としています。

 私の2年前に亡くなった猫の亡くなる前の私をジーッと見つめていてくれた目が私のこころにやきついています。今でもあの目を思い出すと涙がでてきます。自分が好きなことをやって味わう喜びなんかあの目をみて感じたこころよりは浅いものです。もともと私たちには自由がないのかもしれません。だから、あんなに美しい目があるのかもしれません。