一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

シフト

2007年09月23日 | Weblog
 「正法眼蔵」では、人間の思考の持つあいまいさ、或いは、思考の自己中心性、偏りに気付き、思考が作りだした仮想の世界から行為の現実の世界へシフトすることを説いています。自分のことを考えても、弱いところにどうしても仮想の世界をつくってしまい、またそれを真実だと思いこみ、結局こんなはずじゃなかったと、誰かや回りの状況を恨んだり怒ったりして、みじめな結果になることがほとんどです。
 「正法眼蔵 弁道話」のなかで、思考を『空華』と言っています。

「承当することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたづらに蹉過す。この知見によりて、空華まちまちなり。」(注1)

『空華』はまちまちで無限にあるというのです。ですので、思考で物事を決めていかなければならないときは、つねにあれにしようか、これにしようかと、こころは揺れ動いて一時たりとも不安から逃れられることはありません。
 行為の世界では、物事を決める条件は二つだけです。目の前の現実と自分の直観だけです。きっぱり、余韻などなく、決着をつけられます。直観というのは、坐禅によって身体と心が本来あるべきように整えられた自分からでる直観です。

 仮想世界の悲劇といえば夏目漱石の「こころ」を思い出します。「こころ」のなかの‘先生’は罪悪感のために自殺してしまいます。
「死んだ積りで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺激で躍り上がりました。然し私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力が何処からか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私に御前は何をする資格もない男だと抑え付けるように云って聞かせます。」(注2)
罪悪感が自殺しかないという仮想の世界を作りだしています。「恐ろしい力がどこからか出てきて、~少しも動けないようにするのです。」と、自分ではどんなことをしても逃れられないと思ってます。
でも、「正法眼蔵」的に考えれば、‘先生’が行為の世界にシフトして、罪の意識よりもっと深いところにある本来の自己(生まれる以前の自分《父母未生以前の消息》)(注3)からでる直観で目の前の現実をとらえて生きていく道があったのではないでしょうか。坐禅をしていると、自分ではどんなことをしても逃れられないと思っていることでも、フッと立ち消えてしまうものであることを、体験させられます。
自分の思考を超えた大いなるものに身を委ねてもよかったのではないでしょうか。

注1:西嶋和夫「正法眼蔵を語る 弁道話」金沢文庫 31頁
注2:夏目漱石「こころ」新潮文庫 263頁
注3:西嶋和夫「仏教 第三の世界観 六版」金沢文庫 115頁

説教

2007年09月16日 | Weblog
 私はここ1週間のうちに、説教しているのを見たり、説教された話を聞いたりして、いかに説教をする人が多いことかとびっくりしました。
 具体的に説教する箇所を、文藝春秋掲載の青山七恵の芥川賞受賞作品の「ひとり日和」から引用します。(注)
 「大学行かないの」
 「うん、今さら」
 「今からでも遅くないでしょ。散々ぶらぶらしたんだからさ、このへんで何かやれば」
 「まだ言うんだ」
 「毎日ほっつき歩いてるわけ」
 「いや、バイトをしてる」
 「何の」
 「お酒注ぎとキオスク」
 「は?」
 「コンパニオンと駅の売店。笹塚駅。知ってる?」
 母は、ふうん、とため息のような返事をした。
 「いかがわしい仕事じゃないよ。一ヶ月、十万は稼いでるよ」
 少し自慢したかったのだが、言った瞬間後悔した。母の前では、自分の持っている何もかもが、くだらなく感じる。
 「あんたねえ、大学へは行っておいたほうがいいよ。あとになって後悔するよ。あのとき勉強しとけばよかった、って」

 この会話を「正法眼蔵」的にするならば、
 「大学行かないの」
 「うん、今さら」
 「あ、そう」
で終わりです。

 「正法眼蔵」的には、相手を批判したり助言することはしないで、ただありのままに相手の言っていることを聞くだけです。「正法眼蔵」は手を代え品を代え、坐禅することを言っているだけです。坐禅をしている時は、音が聞こえても何かが見えても、聞こえるままにし見えるままにしています。音や見えたものをありのままに受け入れ、それに対して手を出すことはありません。それと同じで、他人との会話でも、ありのままに受け入れ、それに対して好き嫌いや是非や相手に影響を与えるようなことは言いません。
 私は人間関係の基本は安心感だと信じています。「母の前では、自分の持っている何もかもが、くだらなく感じる。」と上記引用文の中にもあるように、説教をする人に対しては、何を言っても否定されるように感じてしまって、本当に自分が思っていることを言わなくなってしまいます。そのうち本当の自分も分からなくなってしまうかもしれません。 
注:文藝春秋平成19年(2007年)3月号 395頁~396頁。

「内発的」

2007年09月09日 | Weblog
 夏目漱石の講演集の「現代日本の開化」の中の‘内発的’という言葉が強く私の触覚を動かしました。本の中では文明開化にからめて‘内発的’という言葉が使われていますが、ここでは‘内発的’という箇所だけ引用させて貰います。
 ‘内発的’というのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向かうのをいい、また‘外発的’とは外からおっかぶさった他の力でやむを得ず一種の形式を取るのを指している。(注1)
 ‘内発的’は波動を描いて進んでいくといわなければならなくて、甲の波が乙の波を呼出し、乙の波がまた丙の波を誘い出して順次に推移しなければならない。甲の波から乙の波へ移るのはすでに甲は飽いていたたまれないから内部欲求の必要上ずるりと新しい一正面を開いたといってよろしい。したがって従来経験し尽くした甲の波には衣を脱いだ蛇と同様未練もなければ残り惜しい心持もしない。(注2)
 ‘内発的’は自然と内に醗酵して醸されたもの。(注3)
 私はこの‘内発的’が「自己の安らい」のキーワードのような気がします。内から自然に出て発展するので、自分で作り出すのではなく自然に出てくるのを待ってなくてはなりません。また甲の波が乙の波を呼出すのも、いつ呼び出すのか自然に任せて待ってなければなりません。ですので、自分にはもちろんですが、他人にもその人が‘内発的’に機が熟すまで待ってあげることが、他人との関係で大事だと思います。
 良寛さんの逸話に次ぎのようなのがあります。
良寛さんが解良家に泊まったとき、良寛さんは難しいお経の話をしたり説教がましいことは一切いわず、ただ家のなかで何をするでもなくぶらぶらしたり、坐禅をするだけだったけれども、良寛さんがいるだけで、みんな仲良くなって、帰った後もほのぼのとしていた。また良寛さんと話した後はとてもすがすがしい気分になったといわれています。
 また「正法眼蔵 弁道話の巻」に次の言葉があります。
「また、心境ともに靜中の証入悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、人身微妙(みみょう)の仏化をなす。」(注4)
『どんな微かなものでも動かさず、どんなものでも個々の相を破壊することなしに。』(注5)
 私は良寛さんのようにも、「正法眼蔵」的にも、他人に対してその人が‘内発的’に機が熟して自然にその人本来の姿で生きられるように、その人のこころを浸食したり自然に反する自分の個人的影響を与えないように、坐禅をして自立していきたいと思います。

注1:夏目漱石「21世紀の日本人へ 夏目漱石」株式会社昌文社 30頁
注2:同上                         38~39頁
注3:同上                          41頁
注4:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 弁道話の巻」金沢文庫 20頁
注5:同上                      25頁参照


                           


「更年期」

2007年09月02日 | Weblog
 私の友達で「更年期」で心身ともに不安定になっている人が何人かいます。子供が就職や結婚で家をでてしまったりとか環境の変化もあるでしょうが、これから先の老いを見るのに避けられない時期にきたせいもあると思います。
 「更年期」で心身に変調をきたす前までは、自分自身の考えや欲望を主人公とし、ただ興味のもてるもの、楽しいことの先っぽを追いつつ空いた時間を退屈せぬように生きているのが普通だと思います。それまでは、どうにかそれで不安を感じつつも生活が回ってたのでしょう。でも「更年期」になってその生き方では不安が解消されなくなったんではないでしょうか。自分の実力もだいたい分かってしまって理想ももてないし、欲望の権化の色気と食い気も、もう美しさでは勝負できないし食い気はそこそこでよくなってしまってます。感受性も鈍くなってエネルギーも少なくなってきているから、何かに興味をもっても、昔ほど退屈しのぎになるまではいかないし、子供や若い人達からはじゃまにならないようにしなくてはいけないしで、なかなか自分自身の考え通りにいかなくなります。
 自分自身の考えや欲望を主人公に生きれば、自分の欲望にかなったものだけを取って、かなわないものは取らないよう切り捨てるので、闇の部分は見ていることにはなりません。それは闇の部分を見ないで現実の反面しか見ない不自然な生き方です。その生き方で生きる限り、不安や寂しさは消えないと思います。不安や寂しさを見ないために、ただの呆け老人になるか、若い人とはりあう滑稽な老人になるか、うざい説教老人になるかでしょう。
 「正法眼蔵」的生き方は、単に自分の欲望や興味だけで生きる生き方とは本質的に違った生き方です。人間の思いを超えた現実をしっかり見て、法に裏打ちされた生き方です。今まで見ないですんできた闇の部分の老いをしっかり見据えて生きるのが自然な生き方ではないでしょうか。でも、闇の部分をみることは思いで受けいれようとしても無理です。生きたい生存本能をもちながら、必ず死なねばならぬ必然性をもつ絶対矛盾は思いでは絶対受けいれられません。坐禅を行じていくしか方法がありません。
 これからは、光と闇が一つになった深さをあじわい、その深さをもっともっと深めていく生き方を見せるのが次世代に残す生き方だと思います。

参照:内山興正「いのち楽しむー内山興正老師遺稿集」大宝輪閣