一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「種子のあるところからの変化」

2013年12月30日 | Weblog
 紀元400年頃世親によって書かれた『唯識二十論』に次ぎのように書かれています。

 「色として顕現する表識は、自らの種子のある所より、或る種の変化(転変)を得ることから生じる、種子であるところのそれと、かの顕現、それらは、かの表識の眼と色との処として次第の如く世尊によって説かれた。」

 私たちが見ているものは、眼の前にものがあってそれを見ているとふつうわれわれは考えますが、ここで「 私たちが見ているものは、自らの種子のあるところより、或る種の変化(転変))を得ることから生じる」、といっています。
 
 これを読むと、仏教ではものを見るというとらえ方は、まったく違うとらえ方をしていることが解ります。仏教のものを見るというとらえ方は、相対的なとらえ方です。自己のこころと何かを相対させてとらえます。何を相対の基準にするかというと種子という言葉でわかります。種子とは何かというと潜在的なエネルギー・パワーのことです。ですから、眼に感覚を与えているこころの潜在的なエネルギーと私たちをとりまく世界のエネルギーを相対してとらえます。

 この相対的なとらえ方で、ものが見えるということを考えたとき、禪宗でよくいう「花はくれない、柳はみどり」というように、ありのままに見ているのは仏教ではものを見るうちにはいらないのかもしれません。初め生まれたときは、私たちは自覚的な分別作用なく、自然に見ているだけの状態です。次に無自覚的な状態より発達し、対境に対して意欲な動き、自覚的にものを見ようとします。この自覚的にものを見ようとするというのは、《自己に》役立てようとする欲望から外側にあるものに執着し我がものとすることです。

 この生まれたときのように、分別作用なく、自然に見ているだけの状態は、眼に感覚を生じさせるこころのエネルギーと私たちをとりまく世界とのエネルギーが同じだから、見えるという認識がないと私は思います。ただ意欲的なこころの動き、こころにブレーキやアクセルをかけてものをみると、こころが本来つかうべきでないエネルギーを浪費してしまうからこころのエネルギーと私たちをとりまく世界とのエネルギーに差が生じて、あ、何かある、とものが見えてしまいます。

 この相対的なものが見えるとらえ方でいくと、エネルギーが関係してくるから、今やったことが、今それですべておしまい、というわけにはいかなくなります。 

 私は嫌なことはなるべく後にしようとします。今ですと年賀状を書くことや大掃除等です。まあ最終的にやればいいんだから何も問題はないでしょうと考えますが、年賀状を書きたくないものだからそれを見ないようにします。でも意欲的にこころにブレーキをかけたことが潜在的なエネルギーに変化をもたらします。そして次に同じような状況で年賀状を見たときに、今度はもっと嫌だという気持ちは強くなって、それがだんだん貯まると、いっぱいいっぱいになって潜在的なものから顕在的なものに変化し、相対的なものの見方からすれば、見えてしまいます。

 最近私は、脂っこいものを食べ過ぎて胃がいたいのです。だからしばしば胃の存在に気づかされます。胃のエネルギーが低下して身体全体のエネルギーと差が生じて胃の存在に気づくのかもしれません。でも胃が正常なときはまったく胃の存在に気がつきません。ものが見えるということも、本来的な根源的生命エネルギーのもとでは、見えるという認識がないのかもしれません。