一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「有時」

2010年07月31日 | Weblog
 「有時(うじ)」の巻は「正法眼蔵」のなかでも最も難しい巻の一つとされています。私も最近までほとんどわかりませんでした。でも久しぶりに読み返してみると、今私が問題としている、外界の対象物はない、幻影である、ということと関係がありそうなので、自分なりの「有時」を解釈したくなりました。

 「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」(註1)

 これを読むと、時間は存在で、存在は時間だ、となります。

 ここでは、時間が存在を左右するとしています。

 目の前に見えているテレビで常にテレビはそこに有ると思ってますが、「有時」のこの解釈からすると、有る時はあって、有る時はない、です。テレビが今まで目の前にあったのに、次の瞬間どこかに飛んで行ってないということではありません。

 このことをもっと具体的にわかるためには、次の言葉が必要です。

 「われを排列しおきて尽界とせり、」(註2)
 「われを排列してわれこれをみるなり。」

 (自己を世界のあらゆる事物の中に並べて、そして世界を見るのでなければならない。)

 配列(排列)するということは、自己が存在どうしにある順序を与え関係付けて(配列して)意味付けることとなる。道元のいうところによれば、世界のあらゆる存在は、何らかの固定的な実体的要素としてあるのではなくて、自己がそれを主体的に順番をつけることによってはじめて存在となる、と書かれています。(註3)

 目の前にテレビがあっても、自動的には何も起こりません。私がテレビに視線をもっていってテレビを眼でとらえるためには、エネルギーをもってきて「動き」をもたらす必要があります。

 眼とテレビが触れる。テレビが人間の眼球の網膜に、ある像として映ることになります。この映った像が、何らかの形で、神経を伝わって脳に伝達されます。それにより、脳は認識を行う、つまり視覚なら色を見るでしょう。

 これらの作用は細胞膜の内外のナトリウムイオンの濃度勾配がなければおこりません。つまりエネルギーがナトリウムイオンを細胞膜の内側から外側へ汲み出すという仕事をしてないと眼にも像として映らないし、脳にも映った像が伝達されないし、脳が認識を行う、つまり視覚なら色を見ることもないわけです。

 (細胞のエネルギーはATPという物質にためられる。ATP分解酵素は、単にATPを分解するわけではない。ATPを分解することによってエネルギーをATPから取り出し、そのエネルギーを使ってきちんと仕事をしているそれはナトリウムイオンを細胞膜の内側から外側へ汲み出すという仕事である 。この仕事によって、細胞は細胞膜の内外にナトリウムイオンの不均衡、つまり濃度勾配を常に作り出している。実はこの不均衡こそが生命現象の源泉となっているのだ。細胞の形態維持、神経インパルスの発生、筋肉の運動、さまざまな活動がナトリウムイオンの濃度勾配に依存している。)(註4)

 眼にテレビが映らなければテレビは存在しないわけだから、そこにテレビが存在するためには、エネルギーが必要です。

 そのエネルギーをどこからもってくるのか?これが仏教の一番の鍵ではないかと私は思うのです。

 仏教では「有漏(うろ)」はダメということで、自分の身体からエネルギーを漏らしてはいけないことになっています。また『般若心経』でも「不生不滅」「不増不減」といっているように、エネルギーはどこからか生まれるものでもなく滅するものでもなく、増えるものでもなく、減るものでもない、といわれています。

 私はこれは、「空(くう)」の思想と深く関係あると思います。

 「縁起」とは相互関係、相互依存であり、実体的なあるものに関係して存在するものではなく、「此が有る故に彼が生じる、此が生じることから彼が生じる」であり、自立的な存在ではなく、無自性です。この「縁起」とは具体的にこういうことかな、と次の本を読んで考えさせられました。

 宮本武蔵『五輪書』に、「十三歳の武蔵は狂暴で、力任せのの撲殺で初勝利を挙げたといわれているが、その後は自然の道理、物理の力学的な法則にかなった練習がその実践の基本であった。少年の武蔵は、この時すでに自然の流れを心で感知し、それが身体の動きに同調することで、自らの剣法を確立する「実の道」への第一歩を踏み出していたのである。荒削りながら、武蔵の若い感性は研ぎ澄まされていた。」(註5)

 「自然の流れを心で感知し、それが身体の動きに同調する」。力任せに刀をふりまわして自分のエネルギーを漏らしてしまうのではなく、「縁起」の法則にのって周りのエネルギーの流れに便乗して自分が流れる、エネルギーの使い方です。自分をとりまくエネルギーに便乗しているので、「無漏」であり、「不生不滅」「不増不滅」です。

 眼にテレビが映るためには、エネルギーが必要です。でもそのエネルギーは自分のエネルギーが漏れてしまってはいけない。仏教でいう「存在」とは、単に眼に映るものを「存在」するとはいわないのです。この「空(くう)」すなわち「縁起」からくるエネルギーで眼に映るものだけを「存在」するというのです。

 勝手に力任せに刀をふりまわすように、私たちが見ようと思えば、なんでも見ることはできます。でも周りの相互関係、相互依存によって見させられるものは一つしかありません。

 だから「自己がそれを主体的に順番をつけることによってはじめて存在となる。」ということは、この「空(くう)」すなわち「縁起」からくるエネルギーがながれこむところはたったの一つしかないわけだから、それを優先順位の一番と配列するわけです。

 私たちは、目に見えるものはなんでもかんでも存在するものとするから、テレビはいつでもそこにあるとみなします。でも確かなものとして「存在」するためには、眼にみえるだけではなく、配列をして順番の一番のものを絞りこまなくてはいけないのです。

 テレビが有る時はあって、有る時はない、ということは、自分のエネルギーを漏らしてしまってテレビをみているときは、テレビを見ていてもテレビは存在しないということです。
 
註1:道元著 水野弥穂子校注「正法眼蔵(二)」岩波文庫 47頁
註2: 同上 47、48頁
註3:頼住光子「道元」NHK出版 93頁
註4:福岡伸一「世界は分けてもわからない」講談社現代新書 209頁
註5:合田周平「構えあって構えなし」PHP文庫 165頁
  
 

「有漏」と「無漏」

2010年07月19日 | Weblog
 仏教では、「有漏(うろ)」と「無漏(むろ)」という言葉があります。「有漏」が「迷い」で「無漏」が「悟り」です。

 福岡伸一氏の本を読んでいたら、これこそが「無漏」だという文がありました。

 「細胞が全く無駄のないやり方でATPを配置し消費する。」

 ATPとは、アデノシン三リン酸の略号である。ATPは細胞内でエネルギーを蓄えている基本的な、そして一番重要な化学物質である。細胞は、酸素を使ってブドウ糖を燃やす。それは酸素を使って灯油を燃やすのと同じ反応である。燃やされた灯油は、熱エネルギーを放出する。燃やされた糖も、熱エネルギーを放出する。しかし、このままだと細胞はいっときあたためられるだけで、熱はやがて拡散していってします。細胞はエネルギーをもっと多面的な用途に、時宜に応じて使いたい。そこで、細胞は、糖をもっとゆっくり燃やしながら、一時、エネルギーを別の形態で備蓄している。それがATPという物質なのだ。
 一方、作られたATPは、エネルギーをその内部に閉じ込めながら、細胞内に貯められ、時に細胞内外を移動する。輸送と分配。そして必要なときに、ATPは分解される。このときエネルギーは放出され、そのエネルギーが細胞内のさまざまな仕事に利用される。

 細胞が全く無駄のないやり方でATPを配置し消費する。(註1)
 
 そのエネルギーがする仕事とは、細胞膜の内外にナトリウムイオンの不均衡、つまり濃度勾配を常に作り出して、この不均衡によって細胞の形態維持、神経インパルスの発生、筋肉の運動さまざまな活動を生み出すことです。

 つまりナトリウムイオンの不均衡こそが生命現象の源泉になっているのだと書かれています。

 だから生命現象の源泉となる筋肉をつかって身体を動かしたり、何かを考えたり、本来あるべき感情がでてくるのは、保存されているエネルギーが必要なときに必要な場所に運ばれてきてなされているということです。

 私たちは力を心をも用いず、無礙自在にして、自然の法にかなった自然法爾の智慧が備わっているはずなのです。どんなコンピューターよりも有能に、全く無駄のないやり方でエネルギーをつかう「無漏」の智慧です。

 それにもかかわらず、私たちははからいをすることや、工作をすることで「無漏」の智慧がみえなくなってしまい「有漏」の迷いの世界の中を輪廻し続けています。


註1:福岡伸一「世界は分けてもわからない」講談社現代新書 172P~173P
註2:  同上 209P