一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「自己の眼ぜい」

2011年10月02日 | Weblog
『正法眼蔵・光明の巻』に次のような言葉があります。

 「たとひその光明は頂にん(ちんにん)より担來して相逢すといへども、自己の眼ぜいに参学せず。」(初祖菩提達磨以前の仏祖は光明をあたまで理解しても、自の内心に体験し直観してこれを証得していない。)

 ここで書かれていることは、いかなる概念、言葉を用いて光明を理解したと思っていても光明はまったくわかっておらず、 自らが坐禅の世界のなかで生々しく直観してみなければ光明をわかったことにはならない、というようなことだと私なりに理解してみました。

仏教は当初から概念的思考が実在に対してもつ無力さを強調してきました。概念的思考こそが虚偽にみちた仮象の世界を創り出す根源力であるとまで考えるにいたりました。その裏には、言葉や概念の虚しさを認めながらも、逆にその力強きエネルギーを坐禅のなかで感知した体験があったからでしょう。「言葉」とはまことに不思議なものです。言葉は自然発生的に生じてきたのか。それとも神に起源をもつのか。

 「言葉」で光明はこういうものだと理解しているうちは、自分の表層の意識でとらえているにすぎません。いくら表層的な部分で理解したつもりになっていても、ちょっとアタマで対応できない変化がやってくれば、言葉で理解した「光明」なんてなんの役にもたちません。

 言葉で対応できることには限界があります。ですから、そこには必ず不安が伴います。そして不安をかき消すためにまた概念で操作してと、死ぬまでそのいたちごっこです。
 
 言葉だけでいろいろな変化に対応できるのであれば、坐禅をお釈迦さまはする必要はなかったはずです。坐禅は表層の部分を鎮めます。言葉で対応できない部分、根源的で深層的な心の部分の存在にお釈迦様はまとを絞っていたから坐禅をしたのでしょう。

 人間のいのちの奥の方には、言葉によって制御することができない暗い衝動、あるいは盲目的な動きがあります。人間のいのちの底に燃える、根源的ないのちの炎です。それはしかし、人間の意識でとらえたり、感覚で感じたりできぬものです。暗いもの、恐ろしいもの、分けの分からぬもの、曲がりくねったもの、複雑多彩なものです。いくら坐禅しても、本人さえも意識できない心の奥底の欲望の火はそう簡単に消せるものではありません。

 私たちは、この根源的で究極的な阿頼耶識に目覚めていかない限り、言葉に依って制御できない深い心で光明を観じとらない限り、光明を理解したことにはならないのかもしれません。

 私は、言葉の世界の戯れあいで一生を終えたくないなあと思うのです。自分のいのちの底に燃える炎をみつめて、その炎とともに焼かれて死ぬほうが、言葉の世界の戯れあいよりはいいかな、と思っているのです。

参照:『唯識の哲学』横山紘一 サーラ叢書 
『禅 現代に生きるもの』紀野一義 NHKブックス