一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

究極の洗練された生き方(宇宙と互角のエネルギー)

2010年03月23日 | Weblog
 「空(くう)」であるというのはどういうことか、ちょっとひらめいたことがあります。

 二人のお相撲さんが動かないで組み合っているとします。お相撲さんの動かない状態は二通りあります。

 一つは互角と互角のちからのため動かない状態。ものすごいエネルギーがある状態です。もう一つはお互いがまったくちからをいれてなくて動かない状態です。エネルギーの無い状態です。綱引きでも同じです。両方のちからが同じで綱の中心点はまったく静止している状態、。エネルギーがある状態。お互いがまったくちからをいれてなくて綱の中心点が静止している状態。エネルギーがない状態です。

 私は「空(くう)」というのは、この互角のちからがバックにあって、ものすごいエネルギーが包含されて静止している状態だと思います。

 私たちのいる地球だって重力と斥力のちからが互角だから、あるべき場所にちゃんとあるのであって、そこにはものすごいエネルギーの均衡があるはずです。

 このバックにエネルギーがあるかないかで、見た目は同じでも、中味の美しさはぜんぜん違います。

 二人が朝五時に起きているとします。一人は朝五時に起きるのが拷問のようにつらいことです。でももう一人はなんか知らないけれどもすんなり五時におきられてしまいます。

 また二人が黙って座っているとします。座っている姿だけ見れば二人は同じです。でもエネルギーのある人は心配ごとがあったとしても、目の前に汚れた皿があればさっと洗いだします。エネルギーのない人は目の前の汚れた皿をみても、心配ごとにとらわれて動こうとしません。

 エネルギーがあれば、瞬間瞬間滅するちからが働くので心配ごとがありながらも、それなりに目の前のことに動くことができます。

 また二人が誰かの話を聞いているとします。聞いている姿は同じです。でもエネルギーのない人はあたまのなかで批判でいっぱいの聞き方をしています。エネルギーのある人は自分をいれず、あるがままに聞いています。

 エネルギーがあれば、智慧がはたらくからです。

 私は目に見えない、このバックのエネルギーに焦点をあてていきたいのです。

究極の洗練された生き方(言葉の世界の否定)

2010年03月10日 | Weblog
 私は最近やっとわかったことがあります。それはみんな言葉の世界で,言葉でどうにかバランスをとって、かろうじて日々暮らしていけているということなのです。

 誰かと話していても本当に理解できないことばかりで、どうしてなんだろう
とずっと疑問でした。言葉の世界のなかで,言葉でバランスをとっているのだと
思うと理解できるようになりました。私には理解できなくても、その人のな
かではその思考回路でうまくバランスをとっておさまっているのです。

 ある仏教仲間は次のように言っていました。道元は仏を盲目的に信じてるか
ら、あんなわけのわからない「正法眼蔵」を書いたんだ、と言うのです。理解
できないのは、理解できない自分のほうにもっていくのではなく、理解できな
いものを書いた道元が悪いにもっていって、自分のなかでは納得してバランスを
とっているのです。

 またある人は今いる職場で疎外感をもっていると、自分はまわりの人よりレ
ベルが上すぎてその職場には合わないのだと言う。私からすれば周りの空気が
読めないから浮いているだけじゃないかと思うのだけれども、それを本人にい
ったとしても、そんなことはないとガンとして言い張ります。私の言葉を受け
入れてしまうと、自分のなかのバランスが狂ってしまって平静さが保てなくな
るからでしょう。

 まあ上記の例は極端すぎるけれども、私だって今日のスケジュールはこうこ
うしようと、あたまのなかで納得することで、なんかバランスがとれて平静な
気分でいられます。だから急に予定外なことが起きると、パニックっちゃって
しまいます。つねに無意識にあたまがバランスをとりたいと私に訴え続けてい
ます。

 言葉の世界のエネルギーというのは、あたまがバランスをとりたいと、言葉
を操作して、あ、こうしよう、とうごくエネルギーです。

 「般若心経」に言葉の世界の否定によって露現する世界があると書かれています。

 『般若心経』は、「無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無
眼界乃至無意識界・・・・」と、一切の存在を否定する表現を重ねている。心
の世界も、自然の世界も、身体(器官)の世界も、一切無いと表現する。しか
しそれは、「行深般若波羅密多時」、甚深なる般若波羅密多(智慧)を行じて
いる中に見られた世界の表現なのであり、むしろ言葉の否定によってこそ露現
する真実があることを伝えるものである。だからこそ、一切を否定しつくした
あと、「心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想」(「心に罣礙無
し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無く、一切の顛倒夢想を遠離す」
という。ここに真の自由が躍動する。一切の否定は、単なる虚無への陥落では
ないのである。(註)
 
 言葉の世界の否定は、単なる虚無への陥落ではなく、真の自由が躍動する世
界であるといいます。

 言葉の世界の否定によって露現する世界とは「智慧」の世界です。猫は今日
のスケジュールなんかなくても、瞬間瞬間の「智慧」がわいてくることを信じ
ているから不安を感じていません。

 でも「智慧」というのは何もしなくてもわいてくるものなのでしょうか。上
記の「般若心経」のなかには、甚深なる般若波羅密多(智慧)を行じている
中、と書かれています。

 言葉の世界と「智慧」の世界とは両立しません。言葉の世界が30%で「智
慧」の世界が70%というのはありえないのです。完全に言葉の世界から離れ
ないと「智慧」の世界はあらわれません。

 良さんの歌に、「焚くほどに風がもてくる落ち葉かな」、というのがあり
ます。

 言葉の世界を焼いてしまうことで、風が「智慧」をはこんでくれるというこ
とも示唆されていると思います。

 私たちは普通にしていれば言葉の世界から離れることはできません。つねに
言葉でバランスをとる世界にいます。だから「智慧」がわいてくるためには
「行」をしなくてはならないのだと思います。

註:竹村牧男「禅のこころ」ちくま学芸文庫