一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

《尽十方界、是れ沙門の全身》

2011年07月24日 | Weblog

 ある本を読んでいたら、「思う」(チェタナー)は人間的行為(業)の原動力となっている、と書かれていました。

 これを見て、私は、これだ、ととっさにひらめきました。仏教で言っている実在するものとは物質をいっているのではなく、人間的行為の原動力をいっているのではないだろうかと。

 私を突き動かすもの、これこそが実在するものではないだろうか。

 

  物質的なとらえ方をすれば、電車の座席の前に座っている人たちをみると、みんなそんなに差のないように見えます。同じような服を着て、同じような表情をして、みんな同じようにみえます。

 でも、その裏に潜むその人たちを突き動かしているものは、何なんだろうと考えてみると、みんな違うのではないでしょうか。その人が、いままで生きてきた歴史のなかで蓄えられたものは、それぞれの親が違う、育ってきた環境も違うで,その人を突き動かす原動力の潜在的な力は、みんなまちまちです。

 そういう歴史のなかで、楽しいことを原動力にする人もいれば、お金を儲けを原動力にする人もいれば、家族や恋人を原動力にする人もいれば、不安を紛らわすことや誰かに対する恨みが原動力になっている人もいたりでまちまちです。

 その人の背景にあるその人を突き動かしている力、それは、電車の座席の何食わぬ顔をしている表面からは、見ることができません。

 でも、その人をその人たらしめているのは、その人を突き動かしている原動力です。

 私を突き動かしてるのは、モラルでもない、自我でもない、もっともっと深いところにあるもののような気がします。

《尽十方界、是れ沙門の全身》、私たちの全身というのは、私たちを突き動かして行動させる原動力であり、それは尽十方界、外部から与えられる力である、と私はとらえてみました。
 



《尽十方界、是れ沙門の眼》

2011年07月19日 | Weblog
『正方眼蔵第十五  光明』

大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆曰伝、

 尽十方界、是沙門眼。
《尽十方界、是れ沙門の眼》

尽十方界、是沙門家常語。
 《尽十方界、是れ沙門の家常語》

尽十方界、是沙門全身。
 《尽十方界、是れ沙門の全身》

尽十方会、是自己光明。
 《尽十方界、是れ自己の光明》

尽十方界、在自己光明裏。
 《尽十方界、自己の光明裏に在り》

尽十方界、無一人不是自己
 《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》

 以上は、『正法眼蔵 光明の巻』の出だしの部分です。これから『光明の巻』について、猫とからめて、学者でもない仏教界のものでもない、ごく一般人の立場から、書きたいことをただ書いてみたいと思います。

《尽十方界、是れ沙門の眼》

 私は猫の目線が大好きです。猫は中途半端な目線はしません。それは猫は‘流れ’をとらえているからです。

 私たちが見ているものは、みんな何の区別なくそこにあるように見えているけれども、猫の目からみればそこに、‘流れ’のオンとオフをしっかりつかんでいます。

 私たちの盲点になっているのは、この‘流れ’のオン・オフに気がついてないということです。

 猫にはオン・オフがある。人間はオフを無視している。オフを無視して尽十法界(外部)からの情報を過剰に自分のなかに入れてしまいます。外部から情報が入ると、私たちの心は働きだし連鎖的に、感情が働き出し、言葉が働き出し、行動が働き出します。1つの過剰な情報で私たちのエネルギーは、雪崩ののように漏れて行きます。

 猫はエネルギーが漏れてないから中途半端な眼はしていません。私をみるときは、100%私をみていてくれます。それに対して私はエネルギーが漏れているから、いつも中途半端な眼をしています。

 なにが‘流れ’ているものなにか?それは眼線の美しさが教えてくれてると思うのです。


内的な自己自身の有り様

2011年07月10日 | Weblog
 『正法眼蔵 現成公案の巻』につぎのような言葉があります。

 「人船にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる、めをしたしくふねにつくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は 常住なるかとあやまる。」(人が舟に乗って行く際、目を遠くにやって岸を見れば、岸が動いているように錯覚する。<しかし>目を直接に舟に向ければ、ふねの進んでいるのがわかるように、身心の誤ったとらえ方をしてものやことはこういうものだと納得していまうと、自心自性は不変だと誤ってしまう。)

 「目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる、」

 これは、私たちの苦楽の根本が外的な要因によるものであるというとらえ方だと思います。

 では、「めをしたしくふねにつくれば、ふねのすすむをしるがごとく、」

 これは、苦楽の根本が外的な要因によるものであると言うよりも、むしろ内的な自己自身の有り様によるものとするとらえ方だと思います。

 苦楽の原因が外的な要因によってもたらされるとすると、好きなものが自分から離れていった近づいてきたということで、一喜一憂します。

 苦楽の原因を外的な要因によるものであると言うよりも、むしろ内的な自己自身の有り様によるものとするとすると、私は「何もない部屋」を連想します。自分の有り様のみが船の進み具合に関係することです。外的な要因を動かそうとしないで、自分の有り様だけを変えます。

 どのように自分の有り様を変えるかというと、仏教では一般にインドで普及していた修行法であるヨーガに目が向けられました。「心」は極めて制御しがたいものであり、このような「心」を制御する修行法がまた必要であると考えられ、ヨーガが仏教の思想体系の根幹に据えられました。

 もし、好きな人がいて相思相愛になりたいと望むとき、「苦楽の原因が外的な要因によるものである」とすると、好きな人が自分を好きになってくれるように、あの手この手でその人を自分のほうに引き寄せようとします。

 「苦楽の原因が自分の有り様によるものである」とすると、好きな人を動かすのではなく、ひたすら坐禅をして、好きな人に振り回されない自分に変わるように、自分を動かそうとします。

 「何もない部屋」で自分の有り様のみに焦点をあわせて自分を動かす。「法」を信じてないと徹しきれない孤独な戦いですね。