一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花びらが束ねられている一点(作「さ」)

2019年07月15日 | Weblog
  ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点に関係するかもしれないという言葉が、『中論』の注釈書の『プラサンナパダー』のなかにありました。それは「作(さ))」という言葉です。「作(さ)」という名詞の元になる動詞の語根の意味は、(作る・為す・形成す・構成す・実行す・履行す・生ず・顕す・示す等)となっています。

 この「作(さ)」に関連して次の文が『プラサンナパダー』にでてきます。

 「すでに見られているものは見られない。いまだ見られていないものは見られないにほかならない。すでに見られているものといまだ見られていないものとよりきり離されては、
現に見られつつあるものは見られない。」

 「私は今花を見ている。」と言っても、見ていると言った時点で私が見たものは過去のものになっていて今見ている花とは違う。またこれから花をみるので「花を見る」と言っても、実際にはまだ見ていないので「花を見る」とはいえません。だから「見る」と言っても実際に見ている行為(見る作)はどの時点でも成立しません。

 上記からすると、「作(さ)」というのは時間の概念で捉えようとすると成立しないようです。「作(さ)」と時間の概念とは一点に束ねられなくて、別々にあることになります。

 「作(さ)」と時間の概念とは別々だということを思い知らされる出来事が最近ありました。私が介護していた老いたワンコが7月1日に亡くなりました。1年7か月前に後ろ足の股関節が外れてしまい、まったく歩けなく、さいごには寝返りもうてなくなってしまいました。言葉のない、言い換えれば時間の概念のないワンコとのかかわりの中で、介護はとてもつらいことだったけれども、でもなぜか朝がくると私の身体が勝手に動いて私も無我夢中でワンコの世話をしていました。

 ワンコがいなくなったら、楽なんだけれども何をやってもむなしいのです。介護している間は、これもやりたい・あれもやりたいと考えていたのに、いざやれるようになったらむなしいのです。

 時間の概念のないワンコに寄り添って私も時間のない世界で無我夢中で生きていたこと、それが普段感じるむなしさを忘れさせていたのかもしれません。

 カーネーションの花びらが束ねられている一点を見て心地よさを感じるのは、むなしさを伴う二つに分裂しているものではなく、無我夢中の一つだからかもしれません。、