一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

慈悲心

2007年11月18日 | Weblog
 私が最近疑問に思っていることがあります。それは人間関係を思惑で図って良いものだろうかということです。誰かに悪口を言われたとか、自分と価値観が合わないとか、その度にそこで人間関係を切っていていいものだろうか。友達にそのことを相談したら、「価値観が違うんだから、もう付き合うことないんじゃないの。」と言われます。でも、どうしてもそれでいいのかという疑問が拭いきれません。
 「正法眼蔵」的には、「自己」というのは、「無明の自分」ではない「本当の自分」だといいます。
 「無明の自分」というのは、親からの遺伝的性格に、生まれた境遇、時代、環境、受けた教育、ならった風習、してきた習慣、生きてきた経験、その他、陽気の加減、食いものの加減まで織り込んだ・・・すべて偶然的なものの「より集まり加減」のものでしかないというのです。そしてこの「無明の自分」の過去の行為が、現在の心をつくりだし、その現在のこころが、これからの行為をつくりだしているといいます。
「本当の自分」とはその偶然の寄せ集めを解体し、透明、正気の自己に帰ることだといわれています。
 私は、「無明の自分」と「本当の自分」のキーワードは「造作」ではないかと推測しています。
 「無明の自分」の「より集まり加減」は偶然とはいえ生まれてから造られたものです。また心も行為によって造られています。
「本当の自分」は坐禅の「造作」無しの状態の有機体レベルの「からだ」からの声です。「からだ」は造作できません。「からだ」に今不安だけど不安じゃないようにしろといっても、心臓はドキドキするし、汗がでてきたり眠れなくなったりして、造作できません。
 道元禅師の著書「普勧坐禅儀」では、

 「ππ(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。不思量底如何(いかん)が思量せん、非思量(ひしりょう)、此(こ)れ乃(すなわ)ち坐禅の要術(ようじゅつ)なり」
  
といっています。この肉体で正しい坐相をするという不思量底を、ネラウ(思量する)のが「不思量底の思量」であり、「非思量」とは「人間の考えでない」ということです。

 この「非思量」からもわかるように、坐禅は「造作」なしということです。
 
くどくどと「無明の自分」とか「本当の自分」とか書いてきましたが、出だしに書いた
私の人間関係が今までは、「無明の自分」基準で考えていて、私が本当にしたい人間関係は、「本当の自分」基準ではないかとうすうす気がついてきたのです。私自身が、「本当の自分」をねらって、「造作」せず、自分の「からだ」からの声に素直に従っていくならば、そこに慈悲心、大悲心が生まれると思います。この慈悲心、大悲心は、生きとし生けるものは、生きているかぎり誰でも、深い悲しみ、愁いをもっている、この深い悲しみ愁いを、ともに悲しむという心です。「出会うところわが生命」とする心です。
 「造作」している限りは、「無明の自分」の造られた価値観にしがみついて、本当の慈悲心は生まれてくることはできないのではないでしょうか。相手の中に自分の悲しみ愁いを見出せる人間関係を築きたいなあ、と自分の築きたい人間関係がちらっと先っぽが見え始めたように思います。

参照:内山興正「自己ーある禅僧の心の遍歴ー」有限会社 大法輪閣


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2 コメント

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元気ですか? (猫好き)
2007-12-18 09:40:26
お久しぶりです。人間関係の先っぽが見えた=良かったですね。私は元気で俳句書いて「正法眼蔵」的生き方をめざしてます。
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(猫好きさんへ) (adiosother)
2007-12-23 14:59:36
コメント いつもありがとう。気がつかなくて返事がおそくなってごめん。人間関係の先っぽは見えたけれども、まだまだ何かにとらわれて尾っぽまではいけません。俳句また雑誌に載ったら教えてね。
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