一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

期待

2008年06月25日 | Weblog
 小池龍之介「「自分」から自由になる沈黙入門」を読んでいたら次ぎのような文がありました。

 『人の心てふものは、身近な人に対するほど期待も要求も強くなるものなり。ドウシテコレヲシテクレナイノ?コレクライシテクレテアタリマエデショ?・・・・・・・・・・そして要求や期待といった「欲」が満たされないと、当然のように不満が留まって相手への怒りや不快感が負のオーラとして発せられ、お互いの糸がこんがらがってゆくようにおもわれます。』(注1)

 この文を読んでいたら我が家の猫を思い出しました。我が家の猫からは自分の思いどおりにならなくても怒りや不快感の負のオーラが感じられないからです。我が家には2匹猫がいるのですが、一匹目に餌をやって二匹目に餌をあげようとしている間何かすることが目にはいって二匹目にあげるのを忘れることがよくあるのですが、二匹目からはまったく怒りや不快感は感じられません。ただ事実だけを見ていて貰えなければくれと鳴くだけです。そして貰えるととても嬉しそうにします。それを見ているだけで私も何かとても暖かい気持になります。

 私だったら一人目が貰って当然自分も貰えると思っていたのに貰えなかったら、怒りだします。そのうえその時点で頭がくるくる働きだし、私にくれないのは私を嫌っているからじゃないかとか、次回もくれなければどうしようとか、いろいろ詮索しだします。そして怒りと不安と疑心暗鬼で曇った目を相手に向けることになります。

 この状況で怒りと不安の目をむけるのはあたりまえだと今まで疑いませんでした。でも竜樹尊者の「中論」のなかで(結果の実在に対する否定)という頌があります(注2)。当然貰えると思っていたのは頭が想像していただけで、自分の思いどおりにならなかったという結果は現実の世界における実在ではないのです。事実はご主人様はまだ私に餌をくれてないということだけです。じゃ餌を貰えるにはどうしようだけです。

 私は自分の期待したように相手が動いてくれないことに対して怒りや不快感を実在だとみなし、その怒りや不快感にふりまわされています。でもその怒りや不快感はこうなるはずだという頭のなかで人工的につくった世界にとりあってできたものです。猫のように冷静に実在だけをみるようにしたいものです。

注1:小池龍之介「「自分」から自由になる沈黙入門」幻冬社 120頁
注2:ナーガールジュナ(竜樹尊者)著 西嶋和夫(愚道和夫)訳「中論」金沢文庫19頁  
 

秋葉原無差別殺人事件

2008年06月16日 | Weblog
 今回の秋葉原の無差別殺人事件をみて、猫はこのような無益な殺生はしないのに人間だけがこのような殺生をするのかとあらためて思いました。

 猫のように善悪の観念もなく道徳教育をうけたわけでもないものが無益な殺生をせず、逆に小さい頃から人に危害を加えたり殺したりは罪悪であると教えられてきた人間が無差別殺人などをするのか不思議です。

 私は殺人をしないようにという考えが殺人をおこさせたという皮肉を感ぜざるをえないのです。

 私たちは他人とつきあうとき、何度かいやな思いをさせられた人というのはもうつきあいたくないということでだんだん一般常識からはずれるような人は孤立してしまいます。でも猫をみていると、言葉の面でいやなことをいわれてもいっさいその人との距離をとろうとか思ってないようです。猫は餌をくれる人、安全な場所を提供してくれる人、遊んでくれる人との関係で距離感を近くしたり、離れたりしています。

 真実は眼の前の今ここ六根で感じられるもので言葉や考えや価値観を超えているものです。だから言葉や考えで他人を拒絶しない、何か変なことを言ってたとしても言葉の先の真実がわかっていれば変なことも聞き流せます。

 私たちがあまりにも言葉や考えの世界にどっぷり浸かりすぎて、他人の変な話しを聞き流せないことが、多くの人を孤立させ今回のような事件をひきおこさせた気がします。

 言葉という人工的なものにふりまわされていれば、人間の身心はすさみ善悪の観念などという人工的な言葉ではおさえきれないような自然には実在しないようなガンみたいな人工的な悪がふきでたのではないでしょうか。


他人のクダラナイ「ジブン」 

2008年06月07日 | Weblog
 ある本に『「ジブン」についての話はそれがたとえどんな内容でも、相手にとっては基本的にツマラナイ。誰もが自分のジブンのことに精一杯で、他人のクダラナイ「ジブン」のことなど聞きたくない。』(注1)というのが書かれていました。

 誰も自分のことに精一杯で他人のことなんかそんなに考えてないよと言われても、名前を間違えられただけでも私なんかどうでもいい存在なんだと悲しくなります。でも竜樹尊者の「中論」を勉強していたら、名前を間違えられた位で悲しんでいる自分が間違っていたのではないかと思いはじめました。

 「中論」による何が実在で何が実在でないのかによれば、現に眼の前に展開されているこの世の中が、実は真実そのものであるのです。思考である言葉は実在ではないのです。
猫を見てると言葉は実在ではないということがよくわかります。猫にかわいいね、とか賢いねとかいっても、まったくとりあわず、そんなことを言う暇があったら餌くれという顔をしています。言葉なんていう食べることもできず触ることもできないようなものにとりあっていたのでは敵に襲われてしまうし、獲物も逃がしてしまうくらい自然界は厳しい
ものなのでしょう。そうすると私たちはもともと自分の眼の前の現象に重心をおいて他人の言葉はとりあわなくてもよいことになります。ましてや他人の「ジブン」という思考で考えた自分という思考のかたまりなんて実在論からすれば偽物なので猫のようにツマラナイと感じるように人間もできていることになります。

 私は「人に思いやりをもちましょう。」とか「人の話をきちんと聞きましょう。」「人を大切にしましょう。」とか他人の話しをきちんと聞かないのは悪いことのような価値基準がインプットされています。だから人の話を聞いてもクダラナイと感じてしまう私のほうが悪いのかしら、と自分を責めたり、きちんと相手の話しに対応しなければと一生懸命反論したりしていました。でも眼の前の現実そのものに重心をおいて言葉は実在ではないという仏教からすれば他人の話しをきちんと聞かないのがよいということになります。とはいっても他人のはなしにそっぽむいてるのも自然に反することのようで良心がとがめるので、相手を傷つけない程度の相づちはうって後は曖昧にほほえんでいるくらいの聞き方ということになります。

 また逆の立場にたてば、自分が適当に扱われてるなと感づいてもみんな自分の眼の前の現象をみることに精一杯なのが自然の姿なのだと思えば腹も立たなくなります。

注:小池竜之介「「自分」から自由になる沈黙入門 」幻冬社 9頁


好き嫌いの先

2008年06月02日 | Weblog
 今勉強している竜樹尊者の「中論」によると思考は実在ではない、また眼に見えたもの、耳に聞こえたものも実在ではない、眼の前の世界をとらえるのは直観が実在であるというのです。

 「われわれは、頭の中で何かを考えて、頭の中で考えたことそのものが現実の事態として、この世の中に本当に実在するものだと考え勝ちであるけれども、それは正しくない。そうかと云って、眼に見えたもの。耳に聞こえたものを物質と呼び、それがあたかも実在するかのように考えることも正しくない。われわれが頭の中で考えている内容は、単に脳細胞のなかにおける解釈であり、われわれの目に見え耳に聞こえて来るものも、単にわれわれの感覚器官の興奮から生まれた刺激でしかない。」(注)

 頭の中で考えたことが実在ではないというのは猫や木を見ると何となくわかるような気がします。猫をみていると自分からこうしようとかああしようとか思って行動していることはありません。木もそうです。自然界のものはすべてそうだと思います。猫はじーっと眼の前の状況を見ていてお日様の光があっちのほうに移動したからそちらの方に移るとか飼い主がソファから立ったから餌をねだりに行こうとか目の前の状況に従って行動します。木も自分でこうしようああしようはなく、すべて回りの状況にあわせて枝を広げだり水分の量を調節したりします。勝手に自分の気分で葉をあっちこっちに広げたりはしないでしょう。人間だけが眼の前の状況を無視して頭で勝手にああしたいこうしたいと行動しています。

 実在しない頭で考えた行動というと、これはやって楽しいこと、これはやりたくないことと自分の好き嫌いで行動することが思い浮かびます。孤独や寂しさや仕事や義務や病気や介護や年をとること醜いことは嫌いで、好きな道楽をすること楽しい刺激を求めること健康でみんなとわいわい楽しいこと美しいことカワイイものは好きなこととなります。私は好き嫌いで何かやったあとなにか後味の悪さを感じることが多いのです。それに比べて眼の前の状況に従ってやりたいことがあっても今やるべきことを優先してすると意外と後味はさわやかです。好き嫌いの先にあるのは無味乾燥でつまらない世界ではなくもっと安心感のある深い世界なのではないでしょうか。

 ‘直観’というのは、眼の前の世界を人工的な好き嫌いというところでとまるのではなく、その先の好き嫌いをはずした眼の前のありのままの世界からうまれるものだと思います。仏教でいう‘直観’は、自分が眼の前の世界と完全に一体となったときに感じられる安心感、究極の本当の自分としての感じ、生まれてくるまえのふるさとに帰った感じです。

注:竜樹尊者 著 愚道和夫 訳「中論」金沢文庫 8頁