一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』第六章貪りと貪る者の考察について)

2020年07月01日 | Weblog


 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという内容が龍樹の『中論』の「貪りと貪る者との考察」と名づけられる第六章のなかにありました。「貪り」というのは「執着」と同義語です。

 この章は「執着」と「執着する者」とのセットの関係性について考察しています。そして、どうもこのセットには「時間の概念と空間・場所の概念は入らないよ」と、言っているらしいのです。

 普通私がなにかをセットで捉えるとき、時間の概念や空間の概念は入っています。たとえば、「「執着する者」が何かを見て「執着」を起こす前はこの人は「執着する者」だけであって「執着」は切り離されている」とか、「執着する者」が出現する前は、「執着」だけがクラゲのようにふらふらその辺りに漂っていて「執着する者」が出現してはじめてその者に取り付く、というように時間の前後関係がある考え方です。

 では何故大乗仏教では普通私たちがなにげにつかっている時間の概念や空間の概念の入ったセットの関係性を否定するのでしょうか。

 それは、「執着」と「執着する者」が両方とももともとは時間の概念と空間の概念が入らないことを示唆しているのではないでしょうか。もともとは永遠にあるもの・普遍にあるものだと言いたいのでしょう。永遠・普遍なるものが変化して「執着」と「執着する者」に見せていると。

 今日は私の愛犬の一年目の命日です。亡くなる一年七ヶ月前に足の股関節が外れてそれからは寝たっきりでした。寝返りもうてない位動けないので私が夜もつきっきりで看病しました。買い物も愛犬が寝てるあいだにさっと行くというまったく自由のない生活でした。介護しているときは早くこの生活が終わってほしいとずっと思ってましたが、亡くなってみると自由なのですが何をしても虚しいのです。愛犬には時間の概念はありません。だから私も一緒にいるとただ犬にあわせてがむしゃらに時間も忘れて生活してたのかもしれません。

 時間の概念や空間の概念のないものっていうのは、ああいうものなのかなと思います。

 この章を勉強して、「執着」と「執着する者」にみせている永遠・普遍なるものをカーネーションの花びらがシューッと束ねられている一点として探しつづけたいと思います。