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この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという内容が、龍樹の『中論』の観去来品第二章のなかにありました。
その章は運動について考察する章です。読んでみると、歩くことを一例として否定し、そのうえ、とどまっていた状態から歩くことを開始すること、歩くことをやめて立ち止まることなどを否定しています。でも普通に考えたら、歩き始めるとか歩くことを止めて立ち止まるというのは、当たり前のこととしてあります。
こういう一連の動作を延々と25の偈で否定しています。コロナの影響でやることがないため勉強を続けてましたが、やりながらなんか無駄なことをやってるのではないかとずっと疑問を持ちつつやっていました。でも『中論』の著者の龍樹(ナーガールジュナ、紀元150~250年ごろ)は初期大乗仏教の確立者としてよく知られているにどどまらず、全世界に大哲学者として仏陀と並んで知られています。だからこれを無駄なことをやっていると感じている私のほうが間違っているのは明らかなのです。
だから勉強しながら こういう動作を否定してなにを言おうとしてるのかとずっと考えていました。
種から芽がでて花が咲くとか、冬から春になるとか、一連の動作があるとすると、私たちの生まれてから死ぬということもあることになります。だから一連の動作の否定の先には、生病老死を超えられるメソッドが隠されているはずです。
私はこのメソッドについて考えるときにいつも坐禅しているときの面持ちを思い浮かべます。季節が移り変わろうが自分の年が変わっていこうがこの坐禅しているときの面持ちだけは同じです。自分が宇宙というパズルのなかの1ピースとしてピタッとはまっている感じです。
今は坐禅をすると膝が痛くなってしまってあまりやってないので偉そうなことは言えないのですが、それでもそういう風に考えてしまいます。一連の動作の先にいつも変わらない一つを見ていなくてはいけない。その一連の動作というのは、本物ではなく幻想や夢や蜃気楼のようなものであって、その先に本物をつねに見ていかなければならない。
お釈迦さまの教えというのは、人間の外側からではなく、人間の内側から照らし顕して究明したものです。だから外側の世界が変化していっても内側から照らし顕すものは一つを狙っていきたいなと思っています。
花びらが束ねられている一点に憧れるというのは、ただ単に部屋がすっきりするミニマリズムに憧れているのかと思ったけど、一連の動作の変化を超越した軸を得ることに対する憧れがあったんだなと今まで自分でも言葉にできなかったことに気がつきました。