一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

猫は後片づけはしない(「批判」を通して「自慢」)

2008年12月31日 | Weblog
 猫をみていると後片づけをしなくてもいい生活をしてるなと、最近気が付きました。私がやらなければならない事の殆どがこの後片づけです。風呂にはいること、掃除洗濯、食事を作った後の後始末,ガスや電気や水道を使えばその料金を後で払う後始末があります。

 私たちのDNAが狩猟時代のままだというのだったら、私たちも後片付けをなるべくしない生活のほうが本来の姿なのではないかといる考えがフッとあたまをよぎったのです。この考えがよぎったときDNAか自分の怠け心かわからないのですが、やるべきことをもっと少なくして、もっと雲のようにふらふらしてたいなあというのが私の本音だということに気が付きました。

 ですので、これからは猫のように後片づけをしない生活をめざして、後片づけをしない生活とはどういうものか、自分なりに探って生きたいと思います。

 まず今日の会話が後始末をする会話になる可能性がありました。夫が年賀状にごちゃごちゃ書くのは嫌いだと言うのを聞いて、私は「自分をだすと、見た人はあんまりいい気分にはならないよね。」と言おうと口の先まででました。でも待てよ、という声が聞こえたのです。これは「私って、こんなこと知ってて偉いでしょう。」が心の底にあって言っている言葉なのではないかと思ったのです。あからさまに自分は偉いでしょうは、はしたないことと教えられているので私たちは人の前ではださないようにしています。でもこうやって、批判するかたちで少しずつ「私って偉いでしょう。」はだしています。

 「私って偉いでしょう。」をあからさまにではなくてもだすと、後で何かいやな感じが残ります。いやな感じが残るので上記の「自分をだすと、見た人はあんまりいい気分にはならないよね。」だけでは会話を納められなくなって、言わなくてもいいことまで、次ぎから次ぎといいだすことになります。あるいは口にはださなくても、この嫌な感じを消さなくてはと自己肯定する材料を探し始めて心のなかが揺れ動きます。また嫌な感じが残ると、負のエネルギーをなって心の底に残り、その負のエネルギーが思わぬところで不安や怒りとなって現れたりします。

 以上のように自分でも気が付かないほどの批判であっても「私」がある批判は、後片づけをしなくてはならなくなります。猫は批判するということがまったくありません。猫をみていると、批判というのはあたまの産物だということがわかります。「空 全体」をとらえて「縁」で行動すれば批判はないのでしょう。

 私は、精神的にも後片づけをしなくてもいいようにずぼらに生活したいので、私って偉いよね発言は控えたいと思います。

 

クリスマス

2008年12月26日 | Weblog
 巷ではクリスマスといってなにかそわそわしています。私もクリスマスは誰かとディナーでもしなくては、とつい思ってしまいます。

 巷でそわそわしだしだすと、私は良寛さんのこの歌が浮かんできます。

 遍界歳暮男女鬧
 唯有草庵正安然
 不知何以答仏恩
 一炉香煙一坐禅
 
 あたかも年の暮であります
 俗世間では何処へ参りましても
 おとこ おみなとも忙しく働いております
 ところが浮世を捨てた愚僧はと申しますと
 御覧のように庵の中で安然たるものがあります
 これはまことに以て有難いことで
 広大無辺の仏恩に
 何と答えたらよいでありましょう
 香炉に香をくべ
 心気を静めて 打坐三昧
 これしかございませぬ
 本当にこれでございます(注)
 
 
 上記のしみじみとした歌を私の無骨な解釈で申し訳ないのですが、私はこの歌を狩猟時代のDNAの観点からみてしまいます。仏教は身心一如といって身体からの影響は避けられない、DNAからの影響は避けられないと思っています。DNAからいって感覚器官の六官でとらえそのとらえたものを筋肉をつかって出力することが基本であるような気がするので、私は最近まず感覚器官の六官でとらえ筋肉をつかって行動するようにしています。

 みんながクリスマスで楽しそうにしているから私も友達に電話してディナーにでも行こう、ではなくて、まず眼の前のことを六官でとらえます。そして猫がしっこしたら、砂を取ったり、汚れた茶碗があったら洗ったりします。

 前だったら、寂しい、ツマラナイと、本屋に行こうとかパソコンにむかうとかしたものですが、今はとにかく目の前のことをみています。

 なにも変化がないときは、ジーッと良寛さんのようにしみじみしています。

 こう思えるようになったのは、私たちのDNAは狩猟時代のままだということに気がついたからなのです。私たちは敵に襲われないように獲物を逃がさないようにジーッと目の前の気配を感じられる状態にあるときが一番安心するようです。これが頭の考えがはいると感覚器官の眼耳鼻口舌心意は考えが入った分鈍くなってしまうのです。感覚器官が鈍くなってしまうと、敵に襲われてしまうし、獲物を逃がしてしまうので不安になるようにつくられているようです。

 だから、クリスマスだろうが正月だろうが連休だろうが、私は目の前のことをジーッとみて、猫がしっこをしたら猫砂をとりかえていきたい。

 
森山隆平「良寛絶句」大陸書房 267~268頁

狩猟時代の脳

2008年12月15日 | Weblog
 猫を見てると人間ほど無駄な動きはしません。

 ある本に私たちの脳は狩猟時代のままだと書いてありました。そうだとすれば猫のように敵に襲われないように獲物を逃がさないように目の前や回りの気配をジーッと感じて、動くときは獲物をとらえるように行動するのが生きものとしての人間の基本ということになります。

 獲物をとらえることは、私たちの心臓が動いていると同じように何かにつきうごかされての行動です。猫が何かに注意を向けて身体が勝手に動き始めます。

 その注意を向ける何かが狩猟時代の脳基準で選んだ一番適切なことです。

 ここに猫が人間ほど無駄な動きをしない理由があるような気がします。「正法眼蔵 坐禅箴」のなかにも、「事ニ触レズシテ知リ、縁に対セズシテ照ラス」という言葉があります。坐禅中にいろいろな事が聞こえたり見えたり思いが浮かんできたりしますが、聞こえるまま見えるまま浮かぶままにします。これは狩猟時代の脳の動き方を再確認しているのではないかと思えます。人間のように見えたもの聞こえたことアタマに浮かんだ思いにランダムに反応していては、敵にすきをみせてしまうし、獲物も逃してしまうでしょう。

 仏教では「外界と内心が連動するような意識活動ではない。」と言われています。眼の前のことはうたかただと思って、内面の寂静だけを求めなさい、というような現実離れのしたものではなく、外界の世界はしっかり見ているけれども、行動するのは狩猟時代の脳が今ここでこれぞと判断したことだけではないかと思うのです。

 私たちは猫のように一日中草むらにかくれてジーッと獲物をねらってるというわけにはいかないので、日常生活を回していかなければなりません。でも坐禅によって狩猟時代の脳の動き方を再確認して、その感覚が身体で何となくわかってくるような気がします。その感覚基準で行動すれば、猫のように無駄な動きをしなくてすむように思えるのです。
 

 

般若心経(遠離〔一切〕転倒夢想。)

2008年12月06日 | Weblog
 もしうちの猫が外猫だったら、ちょっとでも帰ってこなかったら、心配するだろうし、家猫でも生き物をかっていると、心配の種はつきません。

 何かを大切に思うということは、裏腹に心配がつきまとうということでしょう。

 でもときどき心配にとらわれて心配とともに暗い海の底に沈んでしまうような気がします。
 
 最近仏教研究者が次のように言っていました。忍ぶの忍は昔は忍識の忍だったそうです。今の認識です。忍耐と認識はだぶっているのです。忍耐は現実の法則を認識することではじめて忍耐できるのだそうです。その心配を耐えられるようにしてくれるのは、智慧だというのです。
 
 私たちは、その心配に耐えられないと思うから目の前のことを歪めてしまいます。現実をありのままにみないで、自分の都合のいいように解釈したり、逆に悪く解釈したりします。歪めてみるから、ますます事態はこんがらがって我慢しなくてもいいことまで、我慢しなくてはいけなくなり、不安や恐怖や恨みや怒りを増やしていきます。

 私は回りをみていると、我慢しなくてもいいことを忍耐し、忍耐すべきところは忍耐してないというように転倒してるようにみえます。我慢しなくてもいいことを忍耐していても、それは耐えられないことです。

 智慧というのは、まず全体をとらえることです。猫のようにジーッとしていることです。猫だったら餌をとらえられる程度、敵から身を守られる程度にジーッとしています。

 私にとって、智慧にのっとっていけば心配は耐えられるというのは、救いです。心配はなくならなくても、日常生活を智慧にそってまわしていくなかで、救いは生まれてくることのような気がします。心配しなくてもいいように、猫も飼わない、人とも近い距離をとらないようにするよりは、そこから発生する心配はひきうけて、死ぬまで泣き続けてもいいから、縁があっての関係を大切にしていきたいと思います。