一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

主観と客観はセット

2011年03月08日 | Weblog
 仏教を勉強していて、最近これはどういうことなんだろうと考えていることは、見ているものと自分とはセットだということです。要するに主観と客観はセットという考え方です。

 見ているものと自分とはセットという考えかたと私が楽に暮らすためと具体的にどういう関係があるのだろうとずっと考えています。そして今こういうことではないのかな、と思いあたりました。

 セットでみれば、自分が変われば不安はなくなる。自分が変われば不安も自然になくなってしまうということです。今いやだなと思いこころを労していたものが、こころを労さなくても対処できるようになることでしょう。

 見ているものと自分とがセットではなく、別々の考え方からすれば、自分で格闘してその不安をどうにかしなくては不安はなくならないと考えます。
 
 クラス会に行くと、「老後はお金と健康が大事」という話題が多いのに気がつかされます。そして、みんなの話しを聞いていると、スポーツクラブに通っているとかヨガをやり始めたとか老後は健康であるためにはこうこうしなくてはいけない、と老後の不安と格闘しています。

 自分が変われば老後の不安と格闘することはなくなる、なんて言う人は、だれもいません。

 唯識の根本定義は、「現実に認められる外的現象と内的精神とはすべて、なにか或る根源的なものによって表されたものにすぎない」、そしてさらに、「この根源的なもの、つまり究極的存在、根本的心理活動を『阿頼耶識』という。したがって唯識とは『あらゆる存在は阿頼耶識によって表されたもの、作り出されたものである』という意味になる。」と書かれています。(註)

 上記によれば、見ているものもそれを見ている自分も、自分の根源的なもの、「阿頼耶識」によって作り出されたものであるということになります。そうであれば、それらを作り出している阿頼耶識を変えれば、不安はなくなるということになります。

 猫をみていると、老後の不安と格闘している様子はありません。猫が常に焦点をあてているのは、自分の根源的なもの、究極的存在である、根源的なエネルギーだけのように私にはみえます。

註:横山紘一「唯識思想入門」第三文明社 レグルス文庫  93頁