一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

(梅華)

2017年03月10日 | Weblog
 私がなによりも拠り所にしているのは、猫のジーッとしている姿です。猫のその姿をみると、なにかと同化しているように一体となっているように溶け込んでいるようにみえます。猫をみてると、動く基準はそれと同化しているかどうかで、自分の好き嫌いはまったくないように見受けられます。

 もともと猫は、好きとか嫌いとか、パーツに分ける発想がないようです。すべて、何かあるものと同化してるかしてないかです。

 それに比べて私はというと、ほとんどパーツに分けて、これは好きこれは嫌いとやって、右往左往しています。またトランプ政権を見ていると、面白い位これがはっきりしています。ISは悪いからこのパーツは無くしてしまおう、とか、自国にとって利益になることは良いことだけれども、利益にならないことは悪いことだから、国外にだしてしまおうととかいう発想です。良いパーツは残して悪いパーツは消してしまえばいいという考え方です。

 何故このようにパーツに分けてしまうんだろうと考えると、仏教ではこころがあざむく情報を受け取って、それがあたかも本当に一つのパーツとしてあるように見えてしまうというのです。

 何故あざむく情報を受け取ってしまうかというと、猫が同化している位より私が異質な位になってしまっているからだと仏教ではいいます。禪の澤木老師はよくラジオの周波数を宇宙に合わせろ、と、おっしゃっていましたが、周波数が同化すべきものと違うものになってしまったから、違う位の情報が入ってくるというのです。

 この同化とパーツのことを考えていたら、新聞に『正法眼蔵』(梅華)に次のように書かれているのを見ました。

 一輪の梅華という小宇宙の中に、大宇宙は開かれていく。雪の中に咲く花こそ、仏の眼である。梅の花の開く時、諸仏は出現する。雪の中に一枝の梅華が香る時、そのとき大地が生じ、世界が起こる。

これを読むと、自然というのは、パーツの片方は捨てて、都合の良い片方だけ取るというようなちゃちいことはしません。一輪の梅の花に全宇宙があらわれるほど力強いものです。

 確かに、私がなんぼこれは良いことだこれは良いことだと頑張ったとしても、梅の花の一輪の美しさ、香りには適わないように思います。