一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

未済

2013年05月04日 | Weblog
  野良猫の親子がマンションの庭で遊んでいるのが見えました。日だまりの中で子猫達が親猫のしっぽで遊んだり兄弟どうしでじゃれあったりしていました。本当に楽しそうでした。私はそれを見ていたら涙がでてとまらなくなりました。野良猫なのでこれからのことを考えたらかわいそうで涙がでたのもありますが、そればかりでもありませんでした。

 このときでた涙は、自分で理由もわからずこころの深いところから出てきた涙でした。
こころのなかの琴線にふれてでた涙でした。

 ハイデガーの『存在と時間』を読んでいたらこの涙と関係あるのではないかと思われる次の文がありました。

 「未済であるというこの言葉は、或る存在者に「属して」はいるものの、まだ欠けているもののことを指さしている。未済であるとは欠如しているということなのだから、その根拠は、なんらかの帰属性のうちにある。たとえば、まだ受領していない賃金精算の残額は未済である。未済になっているものはまだ意のままにはならない。「賃金」が返済されれば未済が除去されるのだから、それは、残額が「回収されること」、言いかえれば、残額が次々と入金してくることなのであって、それによって、未了がいわば補充されて、ついに賃金の総計が「いっしょに集まる」にいたるのである。それゆえ、未済であるとは、いっしょに帰属しているべきはずのものがまだいっしょに集まっていないということを意味している。
 まだ何かが未済になっているような存在者は、道具的存在者という存在様式をもっているのである。いっしょになっているということ、ないしはいっしょになっていることに基礎を置いているいっしょになっていないということを、われあれは総計として性格づける。」
 
 野良猫の親子が遊んでいるのを見てでた涙というのは、本来は自分もそうなりたいのにそうなれないからその未済の部分を本来の自分が知らせてくれるめにでたのかもしれません。今のあなたは、本来のあなたじゃないよ、何か違ってるでしょう、と。一緒になっているはずなのに一緒になっていないものが欠けているよ、と。

 涙をながさせて私たちに自分自身であるのか、自分自身でないのかと教えてくれる構造が私たちのなかには本来的に存在してるのかもしれません。

 一緒になっていることに基礎をおいて私たちがつくられているからこそ、その未済の部分を知らせてくれる涙があるわけです。

 ハイデガーの上記の文をみると、「いっしょになっていることに基礎を置いているいっしょになっていないこと」と書かれています。この表現をみると、いっしょに集まった総計に基準があっていることになります。

 この基準を仏教にあてはめてみるとどうでしょうか。仏教の基準はこの総計にあるのではないかと。

 まわりをみると、電車にのっていれば、携帯を見ている人がほとんどで、新宿にいけば、人でごった返しています。これは、いっしょになっていることなんかどこかにいってしまって、自分がどの地点にいるのかもまったくこころの片隅にもなく、なにか他のものに動かされているように動いています。でも、このいっしょになっていることを基準に考えると、この状態はいっしょになることに貢献しているのか、逆に欠けているところをもっと増やすことになるのでないかと考えることもできます。

 仏教の修行は、このいっしょに集まった総計に基準をあわせています。この総計の状態にいきつくために修行します。なぜそれにあわせて修行するようになったというと、私たちのこころをヨガ行でみつめていったとき、自分の本来の構造が100%にあわせて作られているとこに気がついたからではないでしょうか。

 それは、野良猫の親子をみて、自分でも思いがけずでた涙や、永平寺の冬の坐禅の修行をテレビで見たときのこころの奥底に共鳴するなにかが私の基準はそこにあるよと教えてくれてるのです。