一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「為すすべ」

2021年03月13日 | Weblog


   「為すすべが あるかないかで 天地の差」

 最近気がついたことがあります。それは、ある瞬間に同時に一つ以上見ることができないということです。人間は昆虫の複眼のように同時にいろいろなものを見ることは出来ません。なので今見る一つを自分で選択します。

 それに反して自分でどうしようも出来ないことがあります。歳をとるというこは自分ではどうしようもなりません。だから歳をとることに為す術もなくただ不安しかありません。

  でも、歳をとるのは仕方の無いことだとして、常に誰かが何かがそばにいてくれたらどうにか耐えられるのではないかな、とずっと思っています。だから、誰かって何かって何なんだろうと、一番切実な問題としてずっと考えていました。

 その何かって、歳をとることはどうしようもないことだけれども、一瞬一瞬は何をみるか選択は自分に委ねられていると言うことではないかと思ったのです。歳をとることは自分ではどうしようもありません。でも何をみるかは、自分の為す術があります。

 自分が今何を見ていればいいのか、なんて、途方もなく難しい問題だけれども、私が今見ているべきものを決めるすべが私のそばにあると思えば、老いも耐えられるかもしれません。

 選択は歳を取ることに勝るなにかを生み出すかもしれない。

「梅の花 何を言おうと してるかな」

2021年03月06日 | Weblog



  (梅の花 何を言おうと してるかな)

 福岡伸一氏の『世界は分けてもわからない』のなかに次のような言葉があります。

生命を生命たらしめるバイタルなもの、それは「生気」である。生物はミクロな部分から成り立っている。そこにプラスαとしての「生気」が加わって初めて生命現象が成立する。名づけてバイタリズム。それは流れである。エネルギーと情報の流れ。生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報がもたらす効果にこそある。

 上記の解釈からすると、梅の花を例にとると、梅の花そのものに焦点をあてるのではなく、梅の花が私に与えた影響こそに焦点をあてるということではないでしょうか。

 梅の花に焦点をあてるのと、梅の花が私に与えた影響に焦点をあてるのではどう違うのでしょうか。

 目の前にある梅の花は一つですが、その梅の花が与える影響はその人その人によって異なります。梅の花を見て、梅の花に関する記憶を思い出している人もいるでしょう。ある人は、この梅の花は邪魔だから切った方がいいと思っている人もいるでしょう。昔の禅の坊さんは梅の花をみて悟ったというのを聞いたことがあります。

 また、同じ人でも、時間や状況によって梅の花から与えられる影響は違います。

 上記の私に与えた影響こそが「生気」と呼ばれるほどの私を私ならしめるものだとする考え方からすれば、次のようにも考えられるでしょう。

 ある友だちがいます。もちろん他人だから価値観は違います。価値観が違うからバッサリ付き合わないようにするか、価値観は違くても、なんか彼女・彼からはいいオーラが伝わってくるから、付き合ってみようとするのでは、私の「生気」が変わります。私を私ならしめるものが変わる。要するに私が変わるということでしょうね。

 友だちと付き合おうと付き合わなくても、私は私だと思っていましたが、この言葉に触れてから、私は他からの影響力で生かされているんではないかと思うようになりました。

 2年弱前に愛犬を亡くしました。股関節がはずれて全く動けなくなったワンコの介護をしました。いやいややっていたのですが、でもワンコの介護をする前とした後では、私はまったく変わりました。ワンコからの影響が私を変えたのです。

 これからも、何かを見たり考えたりするとき、そのものに焦点をあてるのではなく、そのものから受ける影響力に焦点をあてていこうと思います。

香りの力

2021年02月22日 | Weblog


   (梅の花 香りがすべてを 異次元へ)

 今は梅の花の満開の時期です。私は桜の花より梅の花がすきです。なので梅の花について何か書きたいとずっと考えていました。梅の香りがなんとも言えず好きです。視覚的に梅の花びらを思い浮かべるよりも香りを思い浮かべるほうが、すっと別の世界があることを気付かせてくれます。

 私がいくらいろいろな面で頑張っても梅の香りに比べたら、まったく取るに足りません 。その取るに足らない例として洋服作りの件があります。私は貧乏性で、洋服を自分で作ったほうが節約できるから作ろうと作りだしました。でも、そのとき梅の花の香りを思い浮かべたのです。

 そして気がついたのです。梅の香りがあれば充分ではないか。梅の香りに添うような、清潔な部屋や身体やこころにしておけばそれでいいのではないかと。洋服を作っていてそれらが出来ればいいけれども、洋服を作り始めたら梅の香りはどこかに行ってしまうなと思ったのです。

 梅の香りは私を異次元へ連れていってくれる力があります。


「ネガティブ・ケイパビリティー」

2021年01月27日 | Weblog



(念仏の ように唱える 言葉あり)

 昨年から念仏のように唱えている言葉があります。それは、「ネガティブ・ケイパビリティー」です。意味は、答えの出ない事態に耐える力だそうです。今のようにコロナ下であまり外に行けない・人に会えないとかで寂しいなと落ち込んでいると、その言葉を念仏のように唱えてご飯を作ったりお風呂に入ったりしています。

 この言葉は私にとってやりたくないことをやるのに劇的に効果があります。毎日の生活はやりたくないことばかりです。掃除をしていたら棚の上の植木鉢が落ちてきてあたりが水だらけ土だらけになって、なんでただでさえやることがあるのにこんなに仕事が増えるの、とうんざりするけれども、「ネガティブ・ケイパビリティー、ネガティブ・ケイパビリティー」と唱えてなんとか掃除をします。

 今思うに、もっと若い頃にこの言葉を知っていたら、今の人生変わっていただろうな、とつい思ってしまいます。仕事もくる仕事を選り好みしないでやっていれば仕事の幅もひろがっただろうし、人間関係ももっと広がったかもしれない。最初から出来ないのではないかとか、拒絶されて冷たくされるのではないかとか、自分が傷つくのをおそれてやらないことがほとんどだったような気がします。でも、答えがでなくてもやっていくなかで、自分にできること、気の合う人が細々とではあっても、増えていった気がします。

 好きなことを追い求める力・嫌いなことを斥ける力、を「ネガティブ・ケイパビリティー」に換えていったら、生活がうまくまわるようになりました。

カーネーションの花びらが束ねられている一点(日常のルーティーン)

2021年01月18日 | Weblog
 

 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないということに気がついたことがあります。

 (ルーティーンは日の出日の入りと一緒だよ)

 仏教を勉強して、私は仏教というのは宇宙のエネルギーに焦点をあわせて言っているのではないかと思っています。そして宇宙のエネルギーといった場合、まず筆頭に太陽があります。でも太陽というのは、生まれて以来当たり前過ぎて無視していたのです。

 日常のルーティーンをどうしようかと生まれて以来模索してきましたが、太陽のことは思い浮かばなかったのですね。でも待てよと、私は宇宙のなかの一部であるなら、太陽を無視して日常のルーティンをおくるのはおかしいではないかと気づきました。

 ということで、朝は五時半に起き夜は八時に寝ることにしました。そうしているうちに一日がきちんと回るようになって、胃痛がときどきあったのですが、それもなくなりました。

 今まで太陽を無視してきた罪滅ぼしに、これからもっと、光のいろいろな様・うつろい・表情をきちんと捉えていきたいと思いました。

 カーネーションの花びらが束ねられている一点というのは、シューッと太陽エネルギーと一体となる一点ではないかな。


 


カーネーションの花びらが束ねられている一点(お茶)

2021年01月15日 | Weblog




 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという出来事が今日ありました。

 (なしとげた 仕事後のお茶は おいしいな)

 昨年の終わり頃に急ぎの仕事がはいってしまいました。その仕事のめどがようやくつきました。成し遂げた満足感とともに飲むお茶は格別です。それまでは、仕事のことが気になってなにをやっていてもうわの空でした。

 仕事を成し遂げてなんでこんなに満足感があるのかと考えてしまいました。おいしいものを食べたとかだれかとおしゃべりをしたときの楽しさとは別物のような気がするのです。

 私は人間の基本的在り方と関係するような気がします。人間はこの酸素のある空気のなかでしか生きることはできません。酸素がなければ死んでしまいます。でも酸素というのは私たちを酸化して破壊していきます。それで、人間は酸素を逆手にとってエネルギーをつくりだし、そのエネルギーをつかって酸素に壊されるまえに自らを壊しそして再構築をするメカニズムをつくって生き延びる方法をみつけたのです。

 刹那生滅です。一瞬一瞬滅しては生まれることです。私たちはやらなければならないことをやらないでいるということは、滅したまんまの状態ということです。やらなければならないことはやり遂げてもとの状態に戻ります。毎日お風呂にはいらなければ臭くなるし汚くなるからお風呂に入ってもとの状態に戻すことのようです。

 私たちのなかになにをしたら元に戻すことになるのか本能的にインプットされていてそれを成し遂げたときに満足するように作られているように思います。だからあんなに達成感があるのでしょう。

 仕事を成し遂げた後というのは、なんかシューッとした次につなげる力を感じます。それって、カーネーションの花びらが一点に束ねられているのを見て感じる感情、茎から花びらにシューッつながるのをみた感情と重なるかもです。

 

カーネーションの花びらが束ねられている一点(おしるこ)

2021年01月13日 | Weblog


 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという出来事が今日ありました。

  (あずき煮て やさしいかおり 包まれる)

 今日ユーチューブでお汁粉を作る動画を見ていたら私も作りたくなって作りました。そうしたら、小豆を煮ているあいだとてもやさしい香りに包まれました。香りを期待して作った訳ではないのに思いがけず気持ちよいひとときが味わえました。

 その日は寂しくてなんかつまんないなと思っていました。そうしたら小豆の香りで癒やされて、ふと思いました。

 つまんないとか、寂しいとか、これってエゴがはいってる感情ではないかと。自分の望むようにならないとマイナーな気持ちになってるだけではないかと。

 そんなこころに矛先を向けていたら、これからもずっと満足することはないのではないかと思いました。これからは、エゴの入らない感情、たとえば小豆の香りでやさしい気持ちになるとか、朝日の春の気配になんとなく外にでてみたくなるとか、そういう気持ちに矛先をむけてみようと思いました。

 あずきの香りでいやされて、「こんな時間がもててわたしってラッキーだな」と、そう思ったら、バカかもしれないけれども、なんとなくハッピーになってしまいました。

 チューリップの花びらが束ねられている一点というのは、エゴが入らない周波数とチャンネルを合わすことのできる一点ではないかと思うのです。


カーネーションの花びらが束ねられている一点(小鳥)

2021年01月12日 | Weblog


 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという出来事が今朝ありました。

 (白黒のことり  プレゼントかな  窓辺の訪問)

 今朝なにげに窓辺を見ていたら白黒のつがいの小鳥がいました。それを見て気持ちがパーッと明るくなりました。それに似た小鳥が2・3年前につがいでうちの近くの電信柱の穴ぼこに巣をつくって雛を育てていました。

 何分かおきに代わる代わる雛に餌を運んでいました。一日明るいうちに何十回と餌を運ぶのですからすごい労働です。だんだん雛の鳴き声も大きくなりだいぶ大きくなったんだなと思っていました。

  そうしているうちにベランダのあたりで親鳥のけたたましい鳴き声がしたのでベランダに出てみると, なんと雛がうちのベランダにいました。親鳥のいないあいだに飛んできたのでしょう。私もどうしていいかわからずとっさに手のひらにのせて外に飛ばしてあげました。そしたら、前の家の屋根に飛んでいきました。

 まだきちんと飛べなかったのに、飛び出してしまったのかもしれません。親鳥がずっとついてましたが、低空飛行をしていたのでその後どうなったかわかりません。

 それを見て、あんなに必死に雛を育てたのに巣立つタイミングが悪いといままでの労力が無駄になって雛もかわいそうだなと、自然の掟というのは非情なもんだなと落ち込んでいました。

 そうしたら、今朝あの小鳥たちに似たつがいが生き生きと生命観あふれて目の前で枝に戯れていました。

 私は、カーネーションの花びらが束ねられている一点というのはエネルギーだと思います。花びらを一点に束ねられているのをみて心地よいと感じるのは、あの小鳥たちの生き生きとした絶え間ない再生のエネルギーと重なると思います。

 私たちを取り巻くエネルギーというのは厳しくはあるけれどもそこで終わりではない未来に続く温かいものだと思うのです。


カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』第六章貪りと貪る者の考察について)

2020年07月01日 | Weblog


 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという内容が龍樹の『中論』の「貪りと貪る者との考察」と名づけられる第六章のなかにありました。「貪り」というのは「執着」と同義語です。

 この章は「執着」と「執着する者」とのセットの関係性について考察しています。そして、どうもこのセットには「時間の概念と空間・場所の概念は入らないよ」と、言っているらしいのです。

 普通私がなにかをセットで捉えるとき、時間の概念や空間の概念は入っています。たとえば、「「執着する者」が何かを見て「執着」を起こす前はこの人は「執着する者」だけであって「執着」は切り離されている」とか、「執着する者」が出現する前は、「執着」だけがクラゲのようにふらふらその辺りに漂っていて「執着する者」が出現してはじめてその者に取り付く、というように時間の前後関係がある考え方です。

 では何故大乗仏教では普通私たちがなにげにつかっている時間の概念や空間の概念の入ったセットの関係性を否定するのでしょうか。

 それは、「執着」と「執着する者」が両方とももともとは時間の概念と空間の概念が入らないことを示唆しているのではないでしょうか。もともとは永遠にあるもの・普遍にあるものだと言いたいのでしょう。永遠・普遍なるものが変化して「執着」と「執着する者」に見せていると。

 今日は私の愛犬の一年目の命日です。亡くなる一年七ヶ月前に足の股関節が外れてそれからは寝たっきりでした。寝返りもうてない位動けないので私が夜もつきっきりで看病しました。買い物も愛犬が寝てるあいだにさっと行くというまったく自由のない生活でした。介護しているときは早くこの生活が終わってほしいとずっと思ってましたが、亡くなってみると自由なのですが何をしても虚しいのです。愛犬には時間の概念はありません。だから私も一緒にいるとただ犬にあわせてがむしゃらに時間も忘れて生活してたのかもしれません。

 時間の概念や空間の概念のないものっていうのは、ああいうものなのかなと思います。

 この章を勉強して、「執着」と「執着する者」にみせている永遠・普遍なるものをカーネーションの花びらがシューッと束ねられている一点として探しつづけたいと思います。
  

カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』第4章色(物質)を考察)

2020年06月14日 | Weblog

 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという内容が、龍樹の『中論』の「集合体(五蘊)の考察」と名づけられる第四章のなかにありました。
五蘊というのは、物質・精神を五類に分けたもので、この章のなかでは代表として色(物質)をとりあげて書かれています。

 そして、この色(物質)を因果関係から考察して、果のない因だけの色(物質)はない、因だけの果のない色(物質)はないといって、どんな色(物質)も因果関係が成立してなくては存在しないと いっています。

 そしてさらに、この因果関係は、空(くう)によってなされなければならない、となっています。

 これはまさに「般若心経」の《色即是空・空即是色》のところです。

 《色(物質)が空(くう)になり、空(くう)が色(物質)になる。》ということは、そこにある一つの貫いているものがあって、その貫いている一つのものが因になったり、果になったりして私たちには見えているということではないでしょうか。

 その貫いている一つものがあって、私たちも生まれてきたのかもしれません。

 上述のカーネーションの花びらがシューッと束ねられている一点をみて気持ちいいなと感じるのは、たんに ものが少ない部屋にあこがれる次元ではなく、DNAの次元で私に そう感じさせるなにかがあるのだなと思いました。