一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「しあわせの原点2」

2007年12月30日 | Weblog
 前のブログの「しあわせの原点」で、主観と客観の接触、交叉の実存的な時間観 について書きましたので、ここでは 主観と客観の接触、交叉の実存的な場  に触れてみたいと思います。
 「正法眼蔵」で対象になる自分の生きている場所というのは、現実に身を置いている場所です。今 目にふれ、耳にふれ、心にふれることが、すべてです。耳にし、口にし、肌にふれ、心にふれることで自分の立ち位置や行うことが決まります。
 このことは、「水は方円に従う」の言葉がわかりやすく説明していると思います。自分が水となって、まるい器(眼前の事物)に従っていることです。かたむけば自分もかたむくし、平らになれば自分も平らになります。
 自己をはこぶことではなく、万法に証せられることです。六根(眼、耳、鼻、舌,身、意)の感覚器官を、身がまえて自分からつかわないことで、瑩山禅師が『坐禅用心記』のなかで「一切為さず、六根作すことなし」と説かれています。からだ全体をまわりの成りゆきにまかせ、自分から意味づけて取りはからわないことです。そこには、人間的なはからいははいりませんので、人間的なはからいの是非や好き嫌いもはいりません。
 「正法眼蔵 授記の巻」に次ぎのように書かれています。

 「明明タル百丱頭、明明タル仏祖意」
 (明々白々とした眼前の事物こそ、疑う余地のない釈尊のご意志だ)(注)

 自由とは、自分の好きなことを好き放題することではなく、逆に自分のはからいのない眼前の事物に従っていくこととは、私にとっては、「正法眼蔵」を勉強しなければ想像もつかないことでした。

注:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 39頁
参照:板橋興宗「むだを堂々とやる!──禅の極意 初版」光雲社

同じ土俵

2007年12月23日 | Weblog
 私の友達にこれから離婚しようとしている人がいます。彼女が言っているのは、「今の夫は、私のやることにいろいろケチをつけて、私のことを全然認めてくれない。今度再婚するときは、ありのままの自分を認めてくれて、自分も相手のために何でもやってあげたいと思えるような人を選びたい。」、言っています。
 でも、再婚するときに離婚したときと同じ土俵で再婚相手を選ぶのは、どうなのかなという疑問が、私にはあります。友達は、今の夫がありのままの自分を認めてくれなかったから、今度はありのままの自分を認めてくれる人を選ぼうとしています。 
 何か問題があったときに、同じ土俵で解決策を得ようと思っても解決しないほうが多いということに、私は最近気がつき始めました。実家が倒産したから、自分が金儲けをして倒産したとき以上に金持ちになってやる、というのも、金という点では、同じ土俵です。今面白くないから、なにか面白いことを探そう、というのも、面白いことという点で同じ土俵です。
 では、同じ土俵でないとしたら、どういうことでしょうか。今の夫は、ありのままの私を認めてくれないけれども、夫なんかの評価にふりまわされない、自分の立ち位置をみつけようとか、実家は倒産したけれども、金に跪かない、金よりもっと大切なものをみつけようとか、面白くなくても、面白いこと以上にもっとこころが落ち着くところをみつけようとかです。究極的にはアタマの作った価値観をはずれた土俵です。

 「正法眼蔵 坐禅箴の巻」につぎのような言葉があります。

 「仏仏ノ要機、祖祖ノ機要、事ニ触レ不シテ而知リ、縁ニ対不シテ而照ス。」(注)

 仏教のかなめは、具体的な事に直接触れなくても知ることができ、回りの出来事も、直接対峙しなくても、わかるということ、だと言っています。

 同じ土俵というのは、「事に触れてしまっていること」、「縁に対してしまっていること」で、何らかの価値観にとらわれていることではないでしょうか。
 私は最近この価値観から自由になりたいと、ことあるごとに今の自分の考えはどの価値観基準に考えてるんだろうと、探るようになりました。

注:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第五巻 七版」金沢文庫 34頁

先入観

2007年12月16日 | Weblog
 我が家には猫が2匹いるのですが、その一匹が今朝私の布団のなかに入ってきました。その後もう一匹の猫が私の布団に入ろうとしたのですが、もう先着が入ってたのであきらめてどこかに行ってしまいました。後に入ろうとした猫を見ていて感心しました。別に入れなくて先に入ってた猫を恨むでもなく、がっかりするでもなく、たんたんと事実を認めてどこかに行く感じでした。私だったら、喜んで入ろうと思って入ったら、先着がいたら怒るだろうなあと想像して、こうなるべきだ、こうしよう、とまず頭で予定をつくり、その通りにならないで、いつもいらいらしている自分に反省させられました。猫には、先入観がなく、瞬間瞬間身心からでる直感で行動しています。
 「正法眼蔵 授記の巻」には、「おまえは仏になるぞ、仏だぞ。」とささやかれるのは、瞬間瞬間身心からでる直感で行動するときだと言っています。
 
 「いはくの成仏は、かならず相継するなり、相継する小許を成仏するなり。これを授記の転次するなり、転次は転得転なり、転次は次得次なり。たとへば造次なり。造次は施為なり。・・・・」
 『ここにいう真理体得者たるの実は、常に〈瞬間瞬間において〉継続されるのである。・・・・真理の把握に関する保証が〈瞬間瞬間に〉引き続いて行われるというのである。・・・その瞬間とは、行為そのもののことである。』(注1)

 「歓喜なる及転次受決、かならず身と同参して偏参し、心と同参して偏参す。さらにまた、身はかならず心に偏ず、心はからなず身に偏ずるゆえに、身心偏といふ。」
 『喜びに満ちあふれた瞬間、瞬間における、真理の把握に関する保証の受領は、かならず体と同時現成の形で実現する。しかもさらに、体はかならず心と一体となり、心はかならず体と一体となっているのであるから、体も心もすみからすみまで一体であるというのである。』(注2)

 猫のように、思い通りにならない人や状況を恨むことなく、現実のなかに飛び込んでたんたんと日常を送れたらなあ、と思う毎日です。

注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 45頁~46頁
注2:同上 48頁~49頁
 

「バカッ」の反応

2007年12月09日 | Weblog
 前回のブログで、観念という人工的な紛い物のない世界と一体になった瞬間に「おまえは仏である」とささやかれる、と「授記の巻」では言っていますと書きました。
 観念のない世界と一体なんて書くと、いったい何をわけのわからないことを言っているんだ、頭のついている人間が、観念のない世界にいれるわけないだろうと99.9%の人が最初から取りあわないと思います。
 人工的な紛い物の観念というのは、自分から使う頭です。
 実在の思いというのは、自分から頭をつかわなくても、自然にでてくる思いです。頭というのは、自分から頭を使わないと何も考えは浮かばないと思っていましたが、自分から頭を使わない方が自然に頭はフル回転するんだそうです。
 「正法眼蔵 弁道話の巻」には、この人口的な紛い物の観念のことを、「水中の月」「かがみのうちのかげ」という表現であらわし、実在でないものとしています。
 もし、「バカッ」と言われた時に、頭の中で問題にし始めることが、人工的な紛い物の観念です。『何で「バカッ」と言われなくてはいけないの、もう絶対に許せない。私だって、それをやったのには理由があるのよ。あの人だって、前に同じようなことやったじゃない。こんないやな感じははやく消したい。・・・・・・・・・』などです。
 実在の思いというのは、「バカッ」と言われた瞬間、身体全体で感じたムッときた怒りや何でという感情や考えです。よく間違われることは、仏教では、怒りの感情はおこしてはいけないとか、常に平常心でなくてはならないと思われてますが、怒りやいやな感じは体験としてはっきり感じます。身体全体で明瞭に感じたままにして、それ以上頭で理解したり感情をまじえて問題にしないことが仏教です。ブツブツ言いながらも、仕方なく料理をしたり風呂を洗ったりして身体を動かしていると、怒りもだんだん薄れて意外と良い対処策が浮かんだりします。
 「バカッ」と言われたことを火種とします。そうして、身体全体で感じたことを煙とします。火種もいじくらないし、部屋の窓を開け放して風通しをよくさえしておけば、煙は窓の外に流れてしまうものです。火種も自然に消えてしまうものです。
 頭の中で問題にしはじめることから大火事になってしますのです。

 私は、以前はこの火種は自然に消えるわけなどないから、自分で消さなくてはと、常に身体全体で身がまえて緊張状態にありました。でも「正法眼蔵」の‘刹那消滅の道理’やこの前読んだ「生物と無生物のあいだ」(注1)からもわかるように、私たちの身体は脳細胞も含めて瞬間瞬間に壊れる前に壊して再構築され動的平衡を保っているのです。このことからも実在の思いは、火種や煙は自然に消えていくのではないかと思いはじめました。
 でも、人工的な紛い物の観念は、それに気がつかない限り自然に消えないのかもしれないし、観念に観念を重ねて大火事になってしまうのかもしれません。

参照:板橋興宗「良寛さんと道元禅師 十六版」光雲社
注1:福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書 

おまえは仏である

2007年12月02日 | Weblog
 今「正法眼蔵 授記の巻」を読んでいます。‘授記’の意味は「おまえは仏である」「おまえ方は必ず仏になる」という保証を与えることです。
 私たちは、自分で認識してもしなくても、どんなに悪いことをやっていても、常に「おまえは仏である」「仏になるであろう」と耳元でささやかれていると書かれています。でも、自分が仏になるとは考えられません。過去のことを思い出しても、私はいろいろな人を傷つけることを言ってしまったり、やったりしています。それだけで仏になる資格はないような気がするし、これからも人を傷つけることを言ったりやったりするような気がしてしまいます。
 でも、「正法眼蔵」で言っている「おまえは仏である」という保証が与えられるのは、善いことをやったり、やれるようになった時にささやかれるとは書かれていません。自分自身が現に身心を置いている現実と一体になった瞬間にささやかれると書かれています。観念という人工的な紛いもののない世界、理屈のはずれた世界と一体になった瞬間にささやかれるというのです。

 「正法眼蔵 授記の巻」に次のように書かれています。

 「まさにしるべし、授記は自己を現成せり、授記これ現成の自己なり。」(注1)
 『(人は)真理把握に関する保証を受領することによって、自分自身を現実のものたらしめるのであり、真理把握に関する保証を受領することこそ、現実の場面における自分自身なのである。』(注2)

 現実の実在するものだけで判断して行動していくことが、絶対に心の底から満足のゆくもので、それが、「おまえは仏である」というささやきではないかと、私は身にしみて実感しはじめています。

注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 31頁
注2:同上 34頁