一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

ねことコンピューターの差(安らぎ)

2016年06月10日 | Weblog
 ねこはけっして私の思い通りには動いてくれません。良かれと思ってふわふわのねこのベッドを買ってきてあげても、気に入らなければ絶対入りません。ねこは自分のなかの声に従ってしか行動しません。

 人間も自分のなかの声に従って行動しているといえば、言えるのだろうけれども、その自分のなかの声がねこと人間では違うように思えます。。

 ねこの行動パターンを見ていると、人間のとはあきらかに違います。ねこは生きていくうえで必要最低限のことはするけれども、無駄に快楽を求めようとはしません。無駄な動きをするかわりに、ジーッとしています。

 ねこの自分のなかの声は、縁起と関係しているように思えます。

  仏教では、「縁起」を主な教義としています。「縁起」の定式は、次のようにいわれています。

 「これあるにより、かれあり
 かれ生ずるにより、これ生ずる
 これ滅するにより、かれ滅する。」

 ねこはこの二つセットの片方からの声に常に従っているのです。片方からの声が聞こえなければ行動しないから、無駄な動きはしないのです。

 それに比べて人間の自分のなかの声とは、二つセットの片方を全く無視してコンピューターのようになにか検索の言葉を入力してでてきた声です。

 そのねこの縁起の片方からの声と人間の縁起を無視した声からとの違いを思い知らされたことが最近あります。

 うちの老ねこが一ヶ月前くらいに足にがんができてしまったのです。病院で手術はしてもらったのですが、近いうちに転移する可能性が高いといわれてしまいました。私は、ねこのこの先の苦しさや私がそれをみていられるんだろうかという不安でいっぱいになってしまって、どうしようどうしようと自分でその不安をもちこたえられなくなっていました。

 そういう状態なのに、実際のねこの様子をみていると、私の不安が安らぐのです。逆に癒されるくらいです。私がどうしようどうしようと不安をもちこたえられなくなっていまったのは、縁起を無視して自分一人だけでつくりだしてる声だったのです。それに対してその不安を減らしてくれるのは、縁起の片方からの声だったのです。

 ねこはしっかり縁起のもう一方の声のみに焦点を合わせています。どんなときでも、もう一方からは、ああしろ・こうしろとの声がしているはずです。ねこを見ていると、日だまりにいってごろごろしたり、ごはんを食べたときは満足して舌なめづりしたり、なでてなでてと甘えてきたりと、縁起のもう一方からの声に従った動作はどれも何気ない動作なのだけれども、愛らしいものばかりです。私は、自分でつくった不安のほうに気をとられてしまって、その愛らしい動作をつくりだすもう一方の声が聞こえてなかったのです。

 これからは、不安は不安だけれども、なるべくねこと同じ縁起のもう一方からの声に焦点を合わせるようにしてねこに寄り添ってやりたいと思います。