一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

猫は後片づけをしない(分別を切る)

2009年04月29日 | Weblog
 年の離れたカップルがいました。親子かなと思っていてたら何かそうでもないようななれなれしい態度をお互いがとっているので、気になって何とはなしに目で追ってしまいました。

 目で追っていて、そのカップルが親子だろうがカップルだろうが私にはあんまり関係ないのに何で私は目で追ってるのだろうと、ふと疑問がよぎりました。

 私は、目で追う基準が3つあると思います。

  1.頭を満足させるため
  2.おいしいものを食べたり美しい景色をみたり肉体を喜ばせるため
  3.獲物をつかまえて敵から身を守るため

 年の離れたカップルを目で追っているのは、1の頭の世界、分別の世界で親子か年の離れたカップルかはっきり分別させないと落ち着かないよ、という世界です。

 仏教は 3の獲物をつかまえて敵から身を守る 世界です。すべて分別とか思惑とか捨てさって目の前に与えられたものを見ることが仏教の世界です。

 だから仏教の世界では、親子かカップルかどっちなんだろうと分別したいようと、頭が望んでも、そういう頭の声は無視して、カップルを目で追うことはせず、目の前に与えられたものを見ます。私たちが狩猟時代だったら、頭がなにかに興味をもったとしてもそれを目でおってよそ見をしていたら今目の前にいるライオンかなにかに喰い殺されてしまう。だから頭の世界は切っていかなければならないわけです。

 今は狩猟時代でもないんだから、頭が満足するまでカップルをみていて何が悪いのかとなりますが、頭の世界では本当の智慧が働かないと思うんです。本当の智慧とは今どちらを選ぶべきかというときに自然にわいてくる適格な決断力です。

 私たちは狩猟時代に生きているわけではないけれども、適格な決断力が自然にわいてくるためには多大なエネルギーが必要なはずです。カップルか親子かなんて余分なエネルギーはつかってられないはずなのです。

 決断したことが間違っていれば、後片づけをしなくてはなりません。猫のように後片づけをしなくてもよいようになるためには、猫のようにすべてを捨てさって目の前にあたえられることを見ることが必要だと私は思います。
 

猫は後片づけをしない(寂しさの底から)

2009年04月19日 | Weblog
 寂しいときはなにか紛れるものを探します。テレビをつけて面白くないから消して、でも寂しくて手持ち無沙汰だからまたつけてとテレビをつけたり消したりやっています。

 猫をみてると、寂しいからなにか寂しさを紛れるものを探そうとはしません。

 猫は何もやることがないときはジーッとしてます。それは猫が耳できこえたり目でみえたりするとは別の微かななにかをとらえていると思えてなりません。

 それは耳できこえるものでもなく、目でみえるものでもなく、手にさわれるものでもないけれども、微かななにかが実在するのです。気のせいではありません。その微かななにかをとらえているときが、猫の基本姿勢のように見えます。その基本姿勢はむさぼりもなく、なにかでざわざわしてしているわけではなく、すべてを捨てさってそのときをそのまま受けとっているようにみえます。それはなにか威厳まで感じます。

 その微かななにかとは、それがをとらえているときが一番安心できるなにかです。耳できこえたり目でみえたりしたものではそれほどの安心感は得られません。

 その猫の基本姿勢をみていたら、私は美しいと思ってしまいます。私は猫の威厳のある美しさを信じて、寂しいときは何かで紛らわそうとしないで沈黙を優先させることにトライしてみます。

 寂しさを何かで紛らわせると、その微かななにかはみえなくなってしまう。その微かななにかがみえなくなってしまうから、沈黙していても手持ち無沙汰になってまた何か寂しさを紛らわすものを探すという悪循環をくりかえすことになります。

 猫のように後片づけをしない生活をするためには、耳で聞こえたり目でみえたりするものより先の本当に安心できる微かななにかをとらえていくことのように思えます。

 
 

猫は後片づけをしない(同じことを言う)

2009年04月10日 | Weblog
 私が最近反省しているのは、人と話していてある単語をきくと自動的にある考えが浮かんできて人に同じことを何回も言っていることです。「ごぼう」と聞くと「ごぼうには赤出しのみそ汁だよね。」みたいに自動的に考えがうかんで同じ事を何回も人に言っているのです。

 それってほとんどの人が別段何の疑問もなくしゃべっていますが、その言葉をかたちにすると顔のシミにあたるのではないかと思いつきました。

 顔の皮膚の細胞が紫外線等で壊されてすぐ新しい細胞に入れ替えられればシミにならなくてすむのに、壊されたままになっているからシミになってしまいます。

 ある単語から固定的な考えや思いが浮かんで同じことを何回も言うのは、細胞を壊れたままにしておくのと同じです。固定的な考えというのは過去の遺物です。もう本来は流れ去ってしまうべきものです。流れ去ってしまうべきものを留めようとしているからシミになってしまうのです。

 坐禅はシミをつくらない訓練をしているようなものです。坐禅をしている最中に何か思いや考えが浮かんできてもその思いを追っていかず、今からだ全体で感じることに集中します。

 猫のように後片づけをしなくてもよいためには、ある単語から自動的に浮かんできた同じ事を何回も何回も人に言っていたのではだめなようです。「ごぼう」と聞いて「ごぼうは赤出しのみそ汁だよね。」と口先まででてきてもぐっとこらえて、 今ここでからだ全体で感じることから出てくる思いを言葉にするほうが後片づけをしなくていいと私は思うのですが。