一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「ネガティブ・ケイパビリティー」

2021年01月27日 | Weblog



(念仏の ように唱える 言葉あり)

 昨年から念仏のように唱えている言葉があります。それは、「ネガティブ・ケイパビリティー」です。意味は、答えの出ない事態に耐える力だそうです。今のようにコロナ下であまり外に行けない・人に会えないとかで寂しいなと落ち込んでいると、その言葉を念仏のように唱えてご飯を作ったりお風呂に入ったりしています。

 この言葉は私にとってやりたくないことをやるのに劇的に効果があります。毎日の生活はやりたくないことばかりです。掃除をしていたら棚の上の植木鉢が落ちてきてあたりが水だらけ土だらけになって、なんでただでさえやることがあるのにこんなに仕事が増えるの、とうんざりするけれども、「ネガティブ・ケイパビリティー、ネガティブ・ケイパビリティー」と唱えてなんとか掃除をします。

 今思うに、もっと若い頃にこの言葉を知っていたら、今の人生変わっていただろうな、とつい思ってしまいます。仕事もくる仕事を選り好みしないでやっていれば仕事の幅もひろがっただろうし、人間関係ももっと広がったかもしれない。最初から出来ないのではないかとか、拒絶されて冷たくされるのではないかとか、自分が傷つくのをおそれてやらないことがほとんどだったような気がします。でも、答えがでなくてもやっていくなかで、自分にできること、気の合う人が細々とではあっても、増えていった気がします。

 好きなことを追い求める力・嫌いなことを斥ける力、を「ネガティブ・ケイパビリティー」に換えていったら、生活がうまくまわるようになりました。

カーネーションの花びらが束ねられている一点(日常のルーティーン)

2021年01月18日 | Weblog
 

 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないということに気がついたことがあります。

 (ルーティーンは日の出日の入りと一緒だよ)

 仏教を勉強して、私は仏教というのは宇宙のエネルギーに焦点をあわせて言っているのではないかと思っています。そして宇宙のエネルギーといった場合、まず筆頭に太陽があります。でも太陽というのは、生まれて以来当たり前過ぎて無視していたのです。

 日常のルーティーンをどうしようかと生まれて以来模索してきましたが、太陽のことは思い浮かばなかったのですね。でも待てよと、私は宇宙のなかの一部であるなら、太陽を無視して日常のルーティンをおくるのはおかしいではないかと気づきました。

 ということで、朝は五時半に起き夜は八時に寝ることにしました。そうしているうちに一日がきちんと回るようになって、胃痛がときどきあったのですが、それもなくなりました。

 今まで太陽を無視してきた罪滅ぼしに、これからもっと、光のいろいろな様・うつろい・表情をきちんと捉えていきたいと思いました。

 カーネーションの花びらが束ねられている一点というのは、シューッと太陽エネルギーと一体となる一点ではないかな。


 


カーネーションの花びらが束ねられている一点(お茶)

2021年01月15日 | Weblog




 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという出来事が今日ありました。

 (なしとげた 仕事後のお茶は おいしいな)

 昨年の終わり頃に急ぎの仕事がはいってしまいました。その仕事のめどがようやくつきました。成し遂げた満足感とともに飲むお茶は格別です。それまでは、仕事のことが気になってなにをやっていてもうわの空でした。

 仕事を成し遂げてなんでこんなに満足感があるのかと考えてしまいました。おいしいものを食べたとかだれかとおしゃべりをしたときの楽しさとは別物のような気がするのです。

 私は人間の基本的在り方と関係するような気がします。人間はこの酸素のある空気のなかでしか生きることはできません。酸素がなければ死んでしまいます。でも酸素というのは私たちを酸化して破壊していきます。それで、人間は酸素を逆手にとってエネルギーをつくりだし、そのエネルギーをつかって酸素に壊されるまえに自らを壊しそして再構築をするメカニズムをつくって生き延びる方法をみつけたのです。

 刹那生滅です。一瞬一瞬滅しては生まれることです。私たちはやらなければならないことをやらないでいるということは、滅したまんまの状態ということです。やらなければならないことはやり遂げてもとの状態に戻ります。毎日お風呂にはいらなければ臭くなるし汚くなるからお風呂に入ってもとの状態に戻すことのようです。

 私たちのなかになにをしたら元に戻すことになるのか本能的にインプットされていてそれを成し遂げたときに満足するように作られているように思います。だからあんなに達成感があるのでしょう。

 仕事を成し遂げた後というのは、なんかシューッとした次につなげる力を感じます。それって、カーネーションの花びらが一点に束ねられているのを見て感じる感情、茎から花びらにシューッつながるのをみた感情と重なるかもです。

 

カーネーションの花びらが束ねられている一点(おしるこ)

2021年01月13日 | Weblog


 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという出来事が今日ありました。

  (あずき煮て やさしいかおり 包まれる)

 今日ユーチューブでお汁粉を作る動画を見ていたら私も作りたくなって作りました。そうしたら、小豆を煮ているあいだとてもやさしい香りに包まれました。香りを期待して作った訳ではないのに思いがけず気持ちよいひとときが味わえました。

 その日は寂しくてなんかつまんないなと思っていました。そうしたら小豆の香りで癒やされて、ふと思いました。

 つまんないとか、寂しいとか、これってエゴがはいってる感情ではないかと。自分の望むようにならないとマイナーな気持ちになってるだけではないかと。

 そんなこころに矛先を向けていたら、これからもずっと満足することはないのではないかと思いました。これからは、エゴの入らない感情、たとえば小豆の香りでやさしい気持ちになるとか、朝日の春の気配になんとなく外にでてみたくなるとか、そういう気持ちに矛先をむけてみようと思いました。

 あずきの香りでいやされて、「こんな時間がもててわたしってラッキーだな」と、そう思ったら、バカかもしれないけれども、なんとなくハッピーになってしまいました。

 チューリップの花びらが束ねられている一点というのは、エゴが入らない周波数とチャンネルを合わすことのできる一点ではないかと思うのです。


カーネーションの花びらが束ねられている一点(小鳥)

2021年01月12日 | Weblog


 ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。

 この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという出来事が今朝ありました。

 (白黒のことり  プレゼントかな  窓辺の訪問)

 今朝なにげに窓辺を見ていたら白黒のつがいの小鳥がいました。それを見て気持ちがパーッと明るくなりました。それに似た小鳥が2・3年前につがいでうちの近くの電信柱の穴ぼこに巣をつくって雛を育てていました。

 何分かおきに代わる代わる雛に餌を運んでいました。一日明るいうちに何十回と餌を運ぶのですからすごい労働です。だんだん雛の鳴き声も大きくなりだいぶ大きくなったんだなと思っていました。

  そうしているうちにベランダのあたりで親鳥のけたたましい鳴き声がしたのでベランダに出てみると, なんと雛がうちのベランダにいました。親鳥のいないあいだに飛んできたのでしょう。私もどうしていいかわからずとっさに手のひらにのせて外に飛ばしてあげました。そしたら、前の家の屋根に飛んでいきました。

 まだきちんと飛べなかったのに、飛び出してしまったのかもしれません。親鳥がずっとついてましたが、低空飛行をしていたのでその後どうなったかわかりません。

 それを見て、あんなに必死に雛を育てたのに巣立つタイミングが悪いといままでの労力が無駄になって雛もかわいそうだなと、自然の掟というのは非情なもんだなと落ち込んでいました。

 そうしたら、今朝あの小鳥たちに似たつがいが生き生きと生命観あふれて目の前で枝に戯れていました。

 私は、カーネーションの花びらが束ねられている一点というのはエネルギーだと思います。花びらを一点に束ねられているのをみて心地よいと感じるのは、あの小鳥たちの生き生きとした絶え間ない再生のエネルギーと重なると思います。

 私たちを取り巻くエネルギーというのは厳しくはあるけれどもそこで終わりではない未来に続く温かいものだと思うのです。