一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(無罣礙故。無有恐怖。遠離(一切)顚倒夢想。究竟涅槃。)

2008年11月27日 | Weblog
 私たちは何かをしようとするとき、〈我〉の誇りを満たしてくれる刺激を求めて行動します。だれかとつきあおうとするとき、自分の〈我〉の誇りを満たしてくれそうな人とつきあったりです。岡野守也氏の「唯識の心理学」に次ぎのように書かれていました。
 
 『たとえば、ほんとうに真心から、一所懸命にアフリカのために働く。ところが、誰も認めてくれない、それどころか「バカみたい」とかいわれる。その上、一所懸命やっているのに、誤解されて現地の人に殴られたりする。そうすると、「私、何のためにこんなことしてるのかしら」ということになったりする。大抵そうなるのではないだろうか。〈私〉という想いがあってやっているから、いいことをやっていてもどこか見返りが欲しいという気持ちがある。それは、物質的見返りとはかぎらない。精神的見返りのほうが、ある意味では大きいのだ。「私は立派なことをやった」という実感・成就感・感謝され、評価され、愛されて、「私は価値がある」という充実感を感じること。「我ながらたいしたものだ」という、〈我〉の誇りを満たしてくれる刺激が欲しいのだ。そのためには、人間、金も労力も何も惜しくない。だから人間は、すばらしいことをやる。学問を必死になってやることもあれば、人助けを一所懸命にやることもある。ときにはお国のためや、人類のために死ぬ人さえいる。精神的な見返りのためには、人間は肉体的な生命を投げ出すことさえあるのである。
 ところが、結局は〈オレ〉が大切な証拠に、「オレはお国のために生きた」と思っている人に、「あなたのやったことは、お国のためでもなんでもない。だまされただけだよ」というと、思わずカッとするだろう。「アフリカ?くだらないから、よしたら」といわれたら、頭に来るのだ。そういうふうに、無意識的に反応する〈我〉があってやっている善なのだ。』(注1)

世の中をみても、他の人は自分の〈我〉の誇りをみたすために動いてくれてるわけではなく、みんなそれぞれの〈我〉の誇りをみたしてくれる刺激を求めて動いているわけだから、どこかで必ず〈我〉の誇りをみたしてくれない不満や怒りをもつことになるわけです。私は仕事ができることに誇りをもっているよといっても、こっちの人は家族と仲良くやっていくことに誇りをもっているよというと、こっちの人はそんなに仕事ばっかりしても家族をないがしろにしててはたいしたことないよとなって、仕事に誇りをもっている人の〈我〉を満足させないわけです。どこかで必ず〈我〉の誇りをみたしてくれない不満や怒りをもつことになる。

 だから、意識上や個人的無意識のレベルで本当に真心から善いことをしても、新たな問題を引き起こすだけなのです。こころのなかに自分が認めてもらえない不満や怒りが蓄積されていくのです。
 
 オバマ次期大統領が貧乏人もない金持ちもな関係なくみんなでひとつのアメリカをつくろうといって当選しました。そこにはみんなの〈我〉の誇りをくすぐるようなものが含まれていたような気がします。でもそのうち、強いアメリカにするためには貧乏人は切り捨てなければならないよといわれたときに、逆に〈我〉の誇りが傷つけられて怒りに変わるでしょう。

 お日様や揺れる木々や猫をみていると、怒りのない世界で生きているようにみえます。それらを動かしているエネルギーというのは、「私は価値がある」とか「私は立派である」とかいう〈我〉を満たすエネルギーではなく、もっともっと深いところで働くエネルギーだと思います。意識や個人的無意識よりもっと深いところ、ある意味では遺伝子や本能よりも深いところにあるような気がします。

 その怒りのない、対立のない心の世界が 岩波文庫の「般若心経・金剛般若心経」に書かれています。

 「とらわれることがなくなった境地に達すれば、行いはおのずから善に合致し、そこに対立を残さない。」(注2)

 (無罣礙故。無有恐怖。遠離(一切)顚倒夢想。究竟涅槃。)というのは、そういう意識や個人的無意識、集合的無意識、遺伝子レベルよりもっと深い世界であらわれるということだと思います。
 
 注1:岡野守也「唯識の心理学」青土社 96~97頁 
 注2:中村元・紀国一義訳注「般若心経 金剛般若心経」岩波文庫203~204頁



般若心経(依般若波羅蜜多故。心無罣礙。)

2008年11月16日 | Weblog
 「依般若波羅蜜多故。心無罜礙。」の意味は(諸々の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。)となっています。(注1)

 ‘般若’の註をみると、次のようです。

 (般若は人間が真実の生命に眼覚めたときにあらわれる根源的な智慧のこと。普通にいう判断能力としての分別知と区別するために無分別知ともいう。本書では般若を「智慧」、分別知を「知識」と書き分けてある。)(注2)

 私は猫をみていると、「智慧」とは何か教えられます。猫が手や体をなめているのを見てても、なめながらお日様や風やわたしたちの動きを感じつつなめているのがわかります。
私はといえば、パソコンのオークションに夢中になって高い、安いとお日様どころではなくなっています。

 猫をみていると、どんなときでも二重構造の世界に生きていると思わされます。猫にはかならずバックに全体があります。全体の情報を体全体で感じとっています。それと同時に体をなめているときは、なめている場所をきちんと見ています。その二重構造の世界に関したことが「正法眼蔵 海印三昧の巻」に次ぎのように書かれています。

 「海上行(こう)の功徳、その徹底行あり、これを深深海底行(こう)なりと海上行するなり。」
 (海面の上を進んで行くような外見を呈しながら、その内実では深く海底を進んで行くような〈二元的〉性格があり、これはきわめて深い海底を進んで行くこととして実践しながら〈同時に〉海面の上を進むという顕在的な性格をも具えているのである。)(注3)

 深い海底を進んで行くということは、全体の情報を感じとっていくことだと思います。そしてその全体の情報をある視点から分類し、今何をすべきかを優先順位をつけて優先順番一番のことを目で追っていることが、海上の上を進んでいることになるような気がします。

 ある視点とは、猫を観察していると、縁、関係です。あらゆるものとの関係において自分がなにをするか決めています。猫をみていると、自分単独からでる行動というのはなくて、かならず何かが動くことで自分が動いています。そしてあらゆるもののなかで一番自他ともにうまくおさまるべき場所をみつけます。
 
 私は、この二重構造のなかで縁、関係において優先順位一番になったものだけに、人間が真実の生命に眼覚めたときにあらわれる根源的な智慧・無分別知が働くと思います。

 だから分別を働かせないと決められないときというのは、この二重構造のどこかに智慧が働かない間違いがあるときのような気がします。

 「依般若波羅蜜多故。心無罜礙。」というのは、私たちが今的確なことをしているときには、根元的な智慧、無分別知が自動的に働くのでこころを覆うものがないという意味ではないでしょうか。

注1:中村元・紀野一義訳註「般若心経 金剛般若心経」岩波文庫 13頁
注2:   同上 17頁
注3:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 3~4頁


 

般若心経(以無所得故。)

2008年11月08日 | Weblog
 中論に次ぎのように書かれています。

 「この世の中はこの世の中自身のためにあるのであって、この世の中以外の単数または複数の目的のためにあるのではない。」(注)

 この世の中はなにか目的があって存在しているわけではない。ただそこに存在しているだけなのだ。

 これと同じように私もただここに存在しているだけなのだ。なのに私はなにか目的をもってなくては今ここに安住できなくなってしまっていました。

 今面白くもない食事の支度をするのも、これが終わったら好きなことをするためと常ににんじんを鼻のまえにぶらさげた馬みたいでした。そしてその好きなことをしたときにはそこに安住するのかといったら、またそうでもないのです。

 鼻のまえにぶらさげたにんじん基準ではなく、ただここに今存在しているだけで安住できる基準はなにかとずっとさぐり続けています。

 それは、最近気がつき始めたのは言葉にできないようなかすかな明るさなのです。月のひかりのように透明で静かな明るさなのです。

 坐禅をしているときには、その明るさを感じます。また坐禅をしている人をみたときもその明るさを感じます。その明るさは気高くやさしく潔さを感じさせます。

 それは宇宙全体にみなぎる明るさだからではないでしょうか。

 こうだからとか、こうすべきとか、こうなるためにとか、ではなく、ただそこには透明な明るさを見いだせるかどうかです。

 「以無所得故。」目的が無い故に「空」になれるというのは、目的にひきずられることではなく、一瞬一瞬この明るさをとらえていくことのように思います。

注:ナーガールジュナ著西嶋和夫訳「中論 改訂版」金沢文庫 3頁