一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「ああ、なんかいいな」

2016年04月05日 | Weblog
 仏教ができた頃のインドでは、自性があって存在するものというのは、壊れないで変化しないで永遠に在り続けるものと考えられていました。仏教では、そういう変化しないで在り続ける有自性は本来のあり方ではないとして、刹那刹那に壊れてはまた生じている無自性を唱えました。いわゆる諸行無常です。

 でも、仏教では諸行無常と唱えているけれども、行き着くところは永遠に壊れないで変化しないものを求めて修行していたのではないかと思うのです。

 この永遠的なものを求めざるをえないような状況が私の回りで重なって起きました。回りの人の変化に落胆させられてる件が重なったのです。年取ってくると、認知症まではいかなくても、みんな被害妄想や頑固になったりと変化していきます。これから年をとれば、ますます、自分も回りの人も悪く変化していくわけだから、その変化にいちいち悲しい思いになったり、怒ったりして振り回されていていいもんだろうかと思ってしまいます。
そんなものに振り回されないもっと永遠的なものをみて暮らしたいな、と。

 そのとき、ふと、ミニマリズムの本に書いてあった言葉、「ものが無くなってみると、壁や屋根が雨や風から守ってくれいるんだな、と感謝の気持ちが湧きました。」が思い浮かびました。

 それっていうのは、雨や風の存在に意識が向いているということで、ものが無くなってはじめて意識が向くところがあるはずで、それも、アタマのなかも同じではないかとふと思ったのです。

 いやな情報が伝わってくるものは、とりあえず捨ててみる。そうすれば、そういう嫌な情報がなくなってはじめて意識が向かうところがあるはずではないかと。

 こうして書いていて、ふと思ったのは、私は今までもそういうものを捨てよう捨てようとしてたんだけどうまくいかなかったのは、何もないというと、からっぽ・みじめ・孤独の印象のほうが払拭しきれなかったからではないかということです。あたまの中からそういうのを全部捨ててしまった先のからっぽやみじめや孤独に自分は耐えられるのかどうか不安だったのです。

 でも、ミニマリズムに載っていた写真が私の気持ちを後押ししてくれました。何もないことを、からっぽ・みじめ・孤独から「ああ、なんかいいな」、というところまで突き詰めてみる。潔くいやな情報が伝わってくる私の回りの状況の関心を捨ててみる。そうしてみてはじめて意識が向く永遠的なものがあるのではないかと。