一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「直接知覚」

2014年02月25日 | Weblog
 今日こんな仏教の本を読んでるよりヨガ教室に通って体を伸ばしているほうが気持ちいいのではないか,という思いがふと頭をよぎりました。そのスポーツセンターはお風呂もついていて、お風呂に入ってくれば夜お風呂に入る手間も省けるし一石二鳥なのです。確かに、これは一見生活のリズムに組み込むには、身体に気持ちよいし健康のためということでよさそうです。

 でも、生活のリズムに組み込む優先順位一位になり得るか、その前にその優先順位を決める視点が身体に気持ちよい健康のためということになっていいのだろうかと自分に聞いてみました。

 自分にとって究極の優先順位一位を決める視点は何かと自分に問いただすときに、私は昨年の4月に死んだ猫を思い出すときにでる涙を考えるのです。今でもその猫のことを思い出すと理由もなしにこころの深いところから勝手に涙がでてきてしまいます。

 今までの自分の生活のリズムに取り入れる優先順位を決める視点は、そこに必ず自分がはいっていました。こういうことをすれば世間的に良く評価されて自分が満足するとか、おいしいものを食べれば自分が気持ち良いと感じるとか、自分基準です。でも、猫を思い出すときにでる涙は、まったく自分がはいってないような気がするのです。猫を思いだして泣いているのを誰かにみせて、あの人ってやさしい人ね、と褒めてもらいたくて泣いているわけではないし、猫のことを思いだして泣くと気持ち良いから泣こうと思って泣いているわけではないからです。

 猫は言葉をもっていません。また私のことを100%信じて頼ってくれました。だから、猫を思い出すと涙がでたのは、猫が私のなかの本当に深い、言葉のない言葉を覚える以前の私、法(ダルマ)を信じたいという私のこころの深いところを 揺さぶって涙がでたと思うのです。

 紀元400年頃にインド人の世親によって書かれた『唯識二十論』に次のような文があります。
「認識方法(量)によって存在と非存在が確定せられる。すべての認識方法の中で現量(直接知覚)の認識方法が最重要である。外界の対象物が存在しないとき、如何にしてこの直接知覚という知が生ずるのか。
      直接知覚の知は夢等の如し。」

 ここで、私たちの感覚器官(眼耳鼻舌身意)で感じる認識方法が存在と非存在を決めるのに最重要である、と反対論者が言ったのに対して、世親は、それらの感覚器官で感じるのは、夢等の如し、と言っています。

  私が、ヨガ教室に通うのを生活のリズムに入れる優先順位の視点にしようとした身体に気持ち良い、健康のためというのは、『唯識二十論』からすれば、夢等の如しく虚しいものになります。この視点で優先順位を決めたものは視点がしょせん虚しいものなのだから決められたものも虚しいものになってしまうということになります。

 この先若い人のようにそんなに長い時間が残されているわけではないのだから、生活のリズムに何を取り入れるかの優先順位を決める視点は、おいしいものを食べるとか健康のためというようなものより、もっと心の深いところに流れる自分の心というものを見つめていきなさいと、死んだ猫が教えてくれています。