最近仏教は究極の整理術ではないかと思いあたりました。整理術とは対象をきちんと整理して、本当に大切なもの、すなわち本質を導き出すことです。本質というのはある1つのものが根本にあって、それが変化していろいろなものにかたちを変えているということです。
仏教はもともと坐禅の修行から真理を導き出した宗教です。坐禅の修行で自分がどう感じるか、すなわち自分のこころを徹底的にみつめていってできた宗教です。だから、仏教の整理術では、自分のこころを本当に大切なもの、すなわち本質であるとしています。
自分のこころといっても、顕在的なこころばかりではなく潜在的なこころに主に焦点をおきました。
潜在的なこころを徹底的にみつめていったときに、そこに、こころの縁起性を発見したのです。こころは、因と果があると。その因でもあり果でもあるのが潜在的なこころのエネルギーであるということです。潜在的なエネルギーが変化していろいろなものに形を変えているということです。潜在的なエネルギー=こころといっても過言ではありません。
その潜在的なエネルギーをみつめていったときに、潜在的なエネルギーを減らすのは、分別・言葉(主観・客観のとらえ方)であることを発見しました。
仏教の整理術からすると、自分の潜在エネルギーを減らさないことのみに焦点を合わせます。例えば、だれか二人が自分が正しいと論争をしているとします。言葉の世界ではどちらが正しいとなりますが、仏教の整理術からすると、論争すること自体どちらも潜在エネルギーを減らしているのです。潜在エネルギーが減れば、こころに執着が生じて負のこころに成ってしまいます。
だから、仏教の整理術では、論争はせず潜在エネルギーを減らさないようにただ黙って坐禅をするだけです。
紀元400年頃インドの世親によって書かれた『唯識二十論』に次のような文があります。
「このように、誤った分別の習性の潜在余力(エネルギー)の眠りによって深く眠りに入った世間は、夢におけるように実在しない対象を見て、目を覚まさない限り、その非存在を如実に理解しない。」
上記の「誤った分別の習性の潜在余力(エネルギー)の眠りによって深く眠りに入った」ということは、本質であるこころ=潜在エネルギーが変化して夢のなかの出来事のように幻を私たちに見させているのに、私たちはその本質のこころ=潜在エネルギーが幻に変化しているとは知らず、その幻を実際存在する対象として執着してしまって整理できず、自分の内ががらくたで溢れているという状態でしょう。
仏教はもともと坐禅の修行から真理を導き出した宗教です。坐禅の修行で自分がどう感じるか、すなわち自分のこころを徹底的にみつめていってできた宗教です。だから、仏教の整理術では、自分のこころを本当に大切なもの、すなわち本質であるとしています。
自分のこころといっても、顕在的なこころばかりではなく潜在的なこころに主に焦点をおきました。
潜在的なこころを徹底的にみつめていったときに、そこに、こころの縁起性を発見したのです。こころは、因と果があると。その因でもあり果でもあるのが潜在的なこころのエネルギーであるということです。潜在的なエネルギーが変化していろいろなものに形を変えているということです。潜在的なエネルギー=こころといっても過言ではありません。
その潜在的なエネルギーをみつめていったときに、潜在的なエネルギーを減らすのは、分別・言葉(主観・客観のとらえ方)であることを発見しました。
仏教の整理術からすると、自分の潜在エネルギーを減らさないことのみに焦点を合わせます。例えば、だれか二人が自分が正しいと論争をしているとします。言葉の世界ではどちらが正しいとなりますが、仏教の整理術からすると、論争すること自体どちらも潜在エネルギーを減らしているのです。潜在エネルギーが減れば、こころに執着が生じて負のこころに成ってしまいます。
だから、仏教の整理術では、論争はせず潜在エネルギーを減らさないようにただ黙って坐禅をするだけです。
紀元400年頃インドの世親によって書かれた『唯識二十論』に次のような文があります。
「このように、誤った分別の習性の潜在余力(エネルギー)の眠りによって深く眠りに入った世間は、夢におけるように実在しない対象を見て、目を覚まさない限り、その非存在を如実に理解しない。」
上記の「誤った分別の習性の潜在余力(エネルギー)の眠りによって深く眠りに入った」ということは、本質であるこころ=潜在エネルギーが変化して夢のなかの出来事のように幻を私たちに見させているのに、私たちはその本質のこころ=潜在エネルギーが幻に変化しているとは知らず、その幻を実際存在する対象として執着してしまって整理できず、自分の内ががらくたで溢れているという状態でしょう。