よく誰かと話していて、「耐えられない」という言葉を聞きます。
「私は耐えられないからこうした。」と。
「寂しさに耐えられないからこうした」「日常生活の退屈さに耐えられないからこうした」
でも何を基準に「耐えられない」といえるのでしょうか。
私は自分の理性で負の感情をコントロールできなくなったときに、「耐えられない」になるのではないかと思います。
でも理性でコントロールできることなんてたかがしれています。相手にバカといわれれば泣いたりわめいたりして大騒ぎしてしまいますし、こんなことで不安を感じてしまうといやだから不安を感じないようにしようと思ったって不安を感じてしまいます。
私は人が話している「耐えられない」は「じゃ耐えられないね」ですましてしまっていいものかとすごい疑問があります。
「正法眼蔵 法華転法華の巻」に次の言葉があります。
「心迷えば法華に転ぜられ」
この言葉は、不安でどうしようもなくなったとき、私たちをとりまく法(宇宙エネルギー)が私たちを動かしてくれると解釈しています。
私たちをとりまく宇宙エネルギーが私たちを動かしてくれるということは、見成公案すなわち目の前に現に成立しているものが公案すなわち絶対の真実であるから、分別を超えて、目の前に現に成立しているものを見ていれば、自然に体が動くエネルギーがわいてくることではないでしょうか。
自分で「耐えられない」と思って右往左往するほかに、「法華に転ぜられ」るのにまかせる「耐えられない」もあっていいのではないかと思っています。
「私は耐えられないからこうした。」と。
「寂しさに耐えられないからこうした」「日常生活の退屈さに耐えられないからこうした」
でも何を基準に「耐えられない」といえるのでしょうか。
私は自分の理性で負の感情をコントロールできなくなったときに、「耐えられない」になるのではないかと思います。
でも理性でコントロールできることなんてたかがしれています。相手にバカといわれれば泣いたりわめいたりして大騒ぎしてしまいますし、こんなことで不安を感じてしまうといやだから不安を感じないようにしようと思ったって不安を感じてしまいます。
私は人が話している「耐えられない」は「じゃ耐えられないね」ですましてしまっていいものかとすごい疑問があります。
「正法眼蔵 法華転法華の巻」に次の言葉があります。
「心迷えば法華に転ぜられ」
この言葉は、不安でどうしようもなくなったとき、私たちをとりまく法(宇宙エネルギー)が私たちを動かしてくれると解釈しています。
私たちをとりまく宇宙エネルギーが私たちを動かしてくれるということは、見成公案すなわち目の前に現に成立しているものが公案すなわち絶対の真実であるから、分別を超えて、目の前に現に成立しているものを見ていれば、自然に体が動くエネルギーがわいてくることではないでしょうか。
自分で「耐えられない」と思って右往左往するほかに、「法華に転ぜられ」るのにまかせる「耐えられない」もあっていいのではないかと思っています。