一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

耐えられない

2009年08月20日 | Weblog
 よく誰かと話していて、「耐えられない」という言葉を聞きます。

「私は耐えられないからこうした。」と。

「寂しさに耐えられないからこうした」「日常生活の退屈さに耐えられないからこうした」

 でも何を基準に「耐えられない」といえるのでしょうか。

 私は自分の理性で負の感情をコントロールできなくなったときに、「耐えられない」になるのではないかと思います。

 でも理性でコントロールできることなんてたかがしれています。相手にバカといわれれば泣いたりわめいたりして大騒ぎしてしまいますし、こんなことで不安を感じてしまうといやだから不安を感じないようにしようと思ったって不安を感じてしまいます。

 私は人が話している「耐えられない」は「じゃ耐えられないね」ですましてしまっていいものかとすごい疑問があります。

 「正法眼蔵 法華転法華の巻」に次の言葉があります。

 「心迷えば法華に転ぜられ」

 この言葉は、不安でどうしようもなくなったとき、私たちをとりまく法(宇宙エネルギー)が私たちを動かしてくれると解釈しています。

 私たちをとりまく宇宙エネルギーが私たちを動かしてくれるということは、見成公案すなわち目の前に現に成立しているものが公案すなわち絶対の真実であるから、分別を超えて、目の前に現に成立しているものを見ていれば、自然に体が動くエネルギーがわいてくることではないでしょうか。

 自分で「耐えられない」と思って右往左往するほかに、「法華に転ぜられ」るのにまかせる「耐えられない」もあっていいのではないかと思っています。

遍一切一味2

2009年08月09日 | Weblog
 電車で中年の女の人が二人で話に夢中になっていました。聞くでもなく聞いているとどうも職場にいる同僚の悪口をいっているらしいのです。悪口といってもその話題にされている同僚が悪口をいわれても仕方のないことをしてるらしくて、普通の人なら誰でも文句をいいたくなる人らしいのです。

 「ちょっと鈴木さんがね、こんなこと言ったのよ。どう思う」

 普段鈴木さんにいらいらしていたアタマが喜んで食いつくようにとびついていきます。
 
 その会話を聞いてて、話しのなかにどっぷり浸ってしまうとその言葉の世界というのは現実と見分けのつかない世界だなと思いました。

 つばをとばしながらその話題に夢中になっていると、アタマの世界が喜んで次から次と言葉をつないでいきます。アタマの世界は沈黙は嫌いです。

 でも女の人が夢中になって話してるのを見ていて、私は猫のジーッとしているのを思い浮かべました。

 電車のなかで人の目もそっちのけで誰かのことを話題にしてつばをとばして興奮して話しているのと、猫のジーッとしているのではどちらが真実かといえば、私は猫のような気がするのです。猫はこの世界をとりまく味を味わっているようです。

 猫の世界が真実のような気がしても、猫みたいにジーッとしていたのではこの日常はまわしていけるわけないだろう、と心許なくなって言葉の世界に引き戻されてしまう毎日です。

 でも日常生活の具体的な例の「聞く」をとりあげてみると、どうも黙ってひたすら相手の話を「聞く」ほうがほとんどの人が喜ぶらしいのです。東山紘久氏の「プロカウンセラーの聞く技術」を読んでいたら、次のように書かれています。

「心のケアの最良のものは、悩みを批判したり、助言することではなく、ただひたすら聞いてあげることなのです。」

「『聞いて』は、あなたの忙しいときに言われることが多いのです。『いま、忙しいから、あとで』が、子どもを失望させます。相手のタイミングで話しを聞いてあげる、これが相手に対してできる最大のことなのです。それ以外は、他の人のことができないのです。」

「相手の言ったことを肯定的にとらえるということは、相手のいったことは相手のこととして認めるということです。あたり前のことですが、話は、聞き手とは関係なく、単に相手がそう思っているといるというだけのことなのです。」

 この「聞く」は言葉に言葉をつなぐアタマの世界ではなく、相手の言葉をただジーッと味わっている猫の世界のような気がします。

 猫のようにジーッとして世界をとりまく味を味わうということは、ただ単にボーッとしている世界ではなく、相手をそのまま認め、相手のタイミングで動くということのようです。

 相手をそのまま認め、相手のタイミングで動くということは、けっして心もとない世界にはならないことの深い意味が隠されていると思います。