一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

自分に正直

2008年04月28日 | Weblog
 ぶらぶらウィンドウを眺めながら買う予定もないのに歩いていると、なにか目にとまってどうしても欲しくなってしまうことがあります。この‘欲しい’というのは本当の気持だと思って、それを手にいれるまでとまらなくなってしまいます。

 きれいなもの、いい香りのもの、触ると気持のいいもの、良い音のもの、おいしいものと、目にとまるもの目にとまるものを買っていたのでは生活費がなくなってしまうので泣く泣くあきらめるのですが、生活費があれば自分の気持ちに正直に買いまくってもよいものなのでしょうか。

 なにか目にとまって‘欲しい’度合いがどうしてもの場合は、‘欲しい’ものだけに、自分のあたまが集中しています。

 なにか目にとまって‘欲しい’ものがあっても、「正法眼蔵」的には‘欲しい’自分のあたまよりも、自分の目の前の世界をきちんとみての「行い」のほうに重きをおきます。「行い」に必要な‘欲しい’度合いになります。

 家のモデルルームや車のショウルームにいくとどうしても、この家に住みたい、この車に乗りたいと際限なく欲望はふくらみます。でも一日を朝起きて、ごはんをつくって食べて、掃除をして、仕事をして、夕ご飯をつくって食べて、風呂にはいって、寝てと考えると、そんなに立派な家は必要だろうか、そんなに立派な車は必要だろうか、となります。私はそこそこでいいような気がします。一日を滞りなくまわすには、そんないい家や車よりも健康な身心がなによりも必要です。

 ‘欲しい’対象だけをみていて‘欲しい’と思っているのは、本当の自分の気持ちではありません。自分の気持ちに正直にと思って家や車欲しさにいやな仕事をして身体を壊してしまうのが、本当の自分の気持でしょうか。「行い」がきちんきちんとなされていくなかでの‘欲しい’の度合いが、自分に正直な‘欲しい’ような気がします。

 「正法眼蔵 阿羅漢」に次ぎのような言葉があります。

「志求阿羅漢は粥足飯足なり。」(注1)

(修行の完成者であることを乞い求めるとは、朝食にも満足し、昼食にも満足した安定した日常生活を送ることである。)

 満足した安定した日常生活がぬけての‘欲しい’は自分に正直ではないと「正法眼蔵」からもうかがえます。

注:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 91頁、93頁 

豪華客船

2008年04月16日 | Weblog
 先日テレビで世界一周する豪華客船の番組を見ていて疑問が残りました。その客船のなかには、退屈しないための施設がびっくりするほど整えられています。プールやバスケットコートやジョッギングレーン、ダンス等のスポーツ施設、エステ、チェアデッキ、図書館、映画館、ジャグジー、レストラン等々、まあこの船のなかにこんなにいろいろな施設がつくれるのかという程沢山の施設があるのです。

 これをみていて、なにか欲張りだなあと感じてしまいました。

 現実はもの足りない、つまらないもので、なにかもっと楽しいこと、刺激的なものを探してなくてはいけないものなのでしょうか。

 仏教的には、現実は、目の前にみえる世界は、静寂であり、恵み深いものであるとしていて、目の前の世界を尊敬の念をもって、最高の教えとして受けとめています。

 私は「正法眼蔵」に出会うまでは、現実は信頼に足るものではなく、自分の力でどうにかしなくてはと思っていました。でも現実を信頼できない根本的な原因は、現実が信頼に足らないものだったのではなく、自分が無知だったからなのです。自己や世界を正しく認識しないことから、物事に対する執着や煩悩が生まれ、そこからさらに迷い、苦しみが生まれる。道元の著書「正法眼蔵」は自己と世界の真相を知ろうとして書かれたもので、その思索の徹底性によって道元の思想は普遍性の深みに達しているといえよう(注)、と言われています。「正法眼蔵」を読むことによって自己と世界の真相があるんだと思うようになってきました。

 現実の姿は同じままで私たちの前にあるのに、真理を知るのと知らないのとでは、つまらない世界にもなるし、十分満ち足りた世界にもなります。

 私は豪華客船にのって現実をもっと楽しいものにするよりも、真理を知ることによって、現実を十分満ち足りた世界にしていきたい。

注:頼水光子「道元 自己・時間・世界はどのように成立するか」NHK出版 2頁

猫が手をなめていた

2008年04月07日 | Weblog
 猫が手をなめていた。私はそれを見ていて、猫は自分の体をこの部分は手でこの部分は頭でこの部分は腹だと区切ってみてないなあ、とふと思いました。昨日は腹をなめたから今日は足をなめようなどとは考えていないようです。

 では人間のように区切ってみるのと猫のように区切らないでみるのとでは何がちがうのかなと疑問がわきました。

 手とか足とかで区切ってとらえることは概念です。概念でとらえようとすると各々名称をつけておかないと考えることができません。猫が手をなめているとき、手とか足とか区別してないということは、概念モードではなく‘非思量’(考えることではない)モードです。目の前の世界を区切られない全体としてとらえています。非思量モードの‘行為’においては全体を一目にみればいいのです。各々区切ってとらえる必要がないからです。目の前の世界は区切られてません。

 「正法眼蔵 坐禅箴」に次のように書かれています。

 「薬山弘道大師座スル次デ、有ル僧問ウ、儿儿(ごつごつ)地什麼(ナニ)ヲカ思量ス、師云ク、箇ノ不思量底ヲ思量ス。僧曰ク、不思量底如何ンガ思量セン。師伝ク、思量ニ非ズ。」
 (薬山弘道大師が坐禅をしていた時、ある僧が問うた。『じっと動かずに何をお考えですか。』と。これに対し薬山弘道大師が考えて言う。『例の考えないという境地を考えているのさ。』と。僧言う。『考えないという境地はどのようにして考えるのですか。』と。大師言う。『考えることではない(非思量)。』)(注1)

 この「考えることではない」と言う表現、すなわち「非思量」という表現が古来坐禅の本質を表すきわめて重要な用語として、『正法眼蔵』の中でもしばしば語られている。(注2)この「非思量」は『考えない』ことではなく、『考えることではない』のです。『考えるとか考えない』を超越した‘世界’です。

 猫をみていると、区切らないで全体を直観でとらえる、宇宙の全景を一目に見ているようにみえます。手とか腹とか頭とか区切ってない。自分と自分以外と区切ってない。‘非思量’モードにいます。

 私は区切ることで全体が消えてしまうと思います。全体さへ見えていれば、‘非思量モード’にさへいれば、なにかなめたいところなめてるとなるのです。猫は手をなめながら手をみているのではなく一目に宇宙全体をみています。全体をみれば手はかってにみえてくるのです。それと同じように人間も自分が自分がと、区切ってみていては自分が何をしていいかもわからないのではないでしょうか。全体さへ見ていれば自分は勝手にみえてくるのではないでしょうか。 
 
注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第五巻」金沢文庫 3~4頁
注2:西嶋和夫「仏教 第三の世界観 六版」金沢文庫 188頁