ぶらぶらウィンドウを眺めながら買う予定もないのに歩いていると、なにか目にとまってどうしても欲しくなってしまうことがあります。この‘欲しい’というのは本当の気持だと思って、それを手にいれるまでとまらなくなってしまいます。
きれいなもの、いい香りのもの、触ると気持のいいもの、良い音のもの、おいしいものと、目にとまるもの目にとまるものを買っていたのでは生活費がなくなってしまうので泣く泣くあきらめるのですが、生活費があれば自分の気持ちに正直に買いまくってもよいものなのでしょうか。
なにか目にとまって‘欲しい’度合いがどうしてもの場合は、‘欲しい’ものだけに、自分のあたまが集中しています。
なにか目にとまって‘欲しい’ものがあっても、「正法眼蔵」的には‘欲しい’自分のあたまよりも、自分の目の前の世界をきちんとみての「行い」のほうに重きをおきます。「行い」に必要な‘欲しい’度合いになります。
家のモデルルームや車のショウルームにいくとどうしても、この家に住みたい、この車に乗りたいと際限なく欲望はふくらみます。でも一日を朝起きて、ごはんをつくって食べて、掃除をして、仕事をして、夕ご飯をつくって食べて、風呂にはいって、寝てと考えると、そんなに立派な家は必要だろうか、そんなに立派な車は必要だろうか、となります。私はそこそこでいいような気がします。一日を滞りなくまわすには、そんないい家や車よりも健康な身心がなによりも必要です。
‘欲しい’対象だけをみていて‘欲しい’と思っているのは、本当の自分の気持ちではありません。自分の気持ちに正直にと思って家や車欲しさにいやな仕事をして身体を壊してしまうのが、本当の自分の気持でしょうか。「行い」がきちんきちんとなされていくなかでの‘欲しい’の度合いが、自分に正直な‘欲しい’ような気がします。
「正法眼蔵 阿羅漢」に次ぎのような言葉があります。
「志求阿羅漢は粥足飯足なり。」(注1)
(修行の完成者であることを乞い求めるとは、朝食にも満足し、昼食にも満足した安定した日常生活を送ることである。)
満足した安定した日常生活がぬけての‘欲しい’は自分に正直ではないと「正法眼蔵」からもうかがえます。
注:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 91頁、93頁
きれいなもの、いい香りのもの、触ると気持のいいもの、良い音のもの、おいしいものと、目にとまるもの目にとまるものを買っていたのでは生活費がなくなってしまうので泣く泣くあきらめるのですが、生活費があれば自分の気持ちに正直に買いまくってもよいものなのでしょうか。
なにか目にとまって‘欲しい’度合いがどうしてもの場合は、‘欲しい’ものだけに、自分のあたまが集中しています。
なにか目にとまって‘欲しい’ものがあっても、「正法眼蔵」的には‘欲しい’自分のあたまよりも、自分の目の前の世界をきちんとみての「行い」のほうに重きをおきます。「行い」に必要な‘欲しい’度合いになります。
家のモデルルームや車のショウルームにいくとどうしても、この家に住みたい、この車に乗りたいと際限なく欲望はふくらみます。でも一日を朝起きて、ごはんをつくって食べて、掃除をして、仕事をして、夕ご飯をつくって食べて、風呂にはいって、寝てと考えると、そんなに立派な家は必要だろうか、そんなに立派な車は必要だろうか、となります。私はそこそこでいいような気がします。一日を滞りなくまわすには、そんないい家や車よりも健康な身心がなによりも必要です。
‘欲しい’対象だけをみていて‘欲しい’と思っているのは、本当の自分の気持ちではありません。自分の気持ちに正直にと思って家や車欲しさにいやな仕事をして身体を壊してしまうのが、本当の自分の気持でしょうか。「行い」がきちんきちんとなされていくなかでの‘欲しい’の度合いが、自分に正直な‘欲しい’ような気がします。
「正法眼蔵 阿羅漢」に次ぎのような言葉があります。
「志求阿羅漢は粥足飯足なり。」(注1)
(修行の完成者であることを乞い求めるとは、朝食にも満足し、昼食にも満足した安定した日常生活を送ることである。)
満足した安定した日常生活がぬけての‘欲しい’は自分に正直ではないと「正法眼蔵」からもうかがえます。
注:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 91頁、93頁