一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「岸が遠ざかる」

2010年11月14日 | Weblog
「正法眼蔵 現成公案の巻」につぎのような言葉があります。

 『人船にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる、めをしたしくふねにつくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は 常住なるかとあやまる。』(人が舟に乗って行く際、目を遠くにやって岸を見れば、岸が動いているように錯覚する。<しかし>目を直接に舟に向ければ、ふねの進んでいるのがわかるように、身心の誤ったとらえ方をしてものやことはこういうものだと納得していまうと、自心自性は不変だと誤ってしまう。)

 『目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる、』

 これは、眼基準の岸のとらえ方です。眼は自分は見られなく他しかみえません。目の前を猫が動いていれば、自分がとまっていて、猫が動いているとみます。

 では、『めをしたしくふねにつくれば、ふねのすすむをしるがごとく、』

 これは、猫が止まっていて、自分が猫から遠ざかったり近づいたりしている見方です。これは眼基準ではないと思います。眼は自分をみることはできませんから。私はエネルギー基準でとらえています。

 猫を見て、あ、そうだ、ごはんをやらなくては、と私が動き出せば、猫を見ることが私に動くエネルギーを与えているので、私と猫の距離は近づきます。

 反対に、猫を見ても、今風呂にはいらなければならないときは、猫と私の関係からエネルギーは発生しないから、猫と私の距離は遠ざかります。

 道元がなぜ上記のことをいっているのかというと、執着と関係すると思います。自分の思い通りにならないことがあると、自分が動くのではなく、思い通りにならないことを動かそうとします。

 子供だったら、こうしろと言って自分のいうとおりにさせる。相手がいうとおりにさせられない場合は怒りや恨みや嫉妬というかたちで思い通りにならないことを歪んだかたちにかえてみようとします。自分をかえているようですが、自分は変わってなくて、思い通りにならないことをゆがんだかたちに変えているだけです。

 自分が変わってないから、思い通りにならないものやならなかったものを見ると、熱くなって、ひがみ、ひねくれ、ねじける、さらに、相手を攻撃する、謀り事をする、素直でなくなる、相手を丸め込む、同情し思いやるこころがなくなる、うぬぼれる等をすることで何とか自分を保とうとします。

 思い通りにならないことを動かすのではなく、自分が動くというのは、思い通りにならなくても、それに耐えうるだけのエネルギーを持つように自分が変わるということです。私たちは耐えられないエネルギーしか持ってないから、そのエネルギー量に相手を合わせようと相手をゆがめて見ます。これは、岸が遠ざかってみえる見方です。道元のいっている一乗である坐禅という舟が、岸が遠ざかるのではなく、自分の舟が動くのを教えてくれる舟だと思っています。