一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

ベローチェ

2009年01月30日 | Weblog
 昨日ベローチェで隣のカップルの会話が耳に入ってきてしまいました。

 20代の女の人がいやに理屈っぽくてひんやりする喋り方をしているので、ちょっとおかしいなと思って何気なく聞いていたら、だんだんその彼女のいやなオーラに取り込まれてしまって、最後には関係のない私までが怒ってベローチェから出てくることになりました。

 話を聞いていると、彼女は自分が悲劇のヒロインで、彼女の期待する答えが返ってこないと相手をなじっているのです。相手の男の人はそんなにいい加減に答えているわけでもなく普通なのですが、彼女はねちねち絡んでいます。

 彼女は数日前に会おうといって会えなかったことをくどくどと文句をいっています。そして次には、私がこんなに落ち込んでいるのにあなたって何でそんなに明るいの、その明るさがいや、とか言っています。彼は、おれまで暗い顔してたらどうにもなんないだろうとか、戸惑いながら言っています。そして何か薬のことを必要以上に説明していて、彼が症状が良くなって楽になればいいじゃない的なことをいったら、私の話をきちんと聞いてない、あなたは私の話を壁をつくって聞いていると相手をなじっています。

 彼はどう答えても責められるのでびくびくしなくてはならない。また彼女も彼のそういう顔を見ていたら自分のせいだと心のどこかで知っているので、余計からまなくてはいけなくなる。

多分彼女の不安をうち消してくれる答えが欲しいのでしょうけれども、彼が彼女の不安を和らげてあげようとあれこれ彼女の話にとりあっていても、結局は自分も愁・悲・苦・憂・悩を感じ共倒れになるか、耐えきれなくなって彼女を捨てるしかないでしょう。

 彼女は言葉の世界でしか生きてない。自分の頭のなかだけで、自分の過去の後悔や未来の不安を消そうとして言葉を操って自分の言葉だけでは足りず、誰かにそのような言葉を言わせてどうにか自分の頭の世界を納得させようとしています。でも言葉では不安はなくなりません。

 言葉だけで自分を納得させることを無明(12縁起)といいます。無知であって、仏教の根本思想としての世界観や人生観に通じないことを無明といいます。

 だから彼女の言葉に同じ無明の世界の言葉を返しても彼女は救えません。救える方法は自分が無明の世界から正見の世界にいくしかありません。

 正見の世界とは、無我・空の世界です。無我や空は無自性とされます。自己として固定した本体や性質がないことです。固定してないとは他と関係なしに孤立して独自に存在できないことです。昨日墓地で弁当を食べているとカラスが近くに寄ってきました。私はこれがあらゆるものが関係している無自性の世界だなと思いました。

 無明の世界の言葉というのはエネルギーを消費するものです。エネルギーが無くなります。言葉というのはエネルギーを外からとりいれないで自分の頭のなかだけでつくりだすのでエネルギーが無くなっていきます。だから彼女の話を無明の世界の言葉でとりあおうとすると、とりあっている人のエネルギーも少なくなります。

 正見の人は、彼女の話は聞いていても自分のなかに‘空’を保っています。彼女の話を聞きながら同時に外のカラスも無意識のうちにきちんと捉えています。‘空’は二重構造です。カラスをとらえていることはエネルギーを充電していることです。外の世界もきちんととらえることによってエネルギーは外から入っているので自分のエネルギーがなくなることはありません。

 私はベローチェで隣のカップルの会話で、彼が彼女の自分のかたまりのような話にどっぷり巻き込まれていってしまってエネルギーが吸い取られているのが歯がゆくて、ちょっと自分なりの救出方法はないだろうかと思って書いてみました。

 

猫は後片づけをしない(六波羅蜜)

2009年01月19日 | Weblog
 後片づけをしないシンプルな生活をねらいたいと考えていたら、六波羅蜜の説明が私の興味を引きました。この説明によれば、六波羅蜜を実行しなければ、後片付けをしまくる複雑な状況におちいるようです。

 六波羅蜜とは 布施・持戒・忍辱・精進・靜慮(坐禅)・智慧 です。前の三は私たちに利益を与えてくれるもので、後の三は諸々の煩悩を退治してくれるものだそうです。

 煩悩というのは、表面に現われて現行しているものだけれはなく、表面に現われない自分の奧深くに眠っている煩悩の種もあるというのです。この煩悩の種を抱えていれば、後で煩悩ゆえに自分や人に愁・悲・苦・憂・悩が生じるとされています。

 たしかに目の前にすてきな人がいないから何もおこらないし、目の前にお金がないから余計なことは考えないけれども、条件が整えばいくらでも煩悩に陥る可能性はあります。

 将来 愁・悲・苦・憂・悩が生じれば、それを無くそうと後片付けをしなくてはなりません。その後片付けをしないためには 精進・静慮(坐禅)・智慧 が必要のようです。

猫は後片づけはしない(「空白」のある楽しみ)

2009年01月07日 | Weblog
 私は楽しいことを探そうとしてパソコンに向かってあれこれした後、時間を無駄にしたと虚しい気分になりました。パソコンは何の感触もないし、何の反応もありません。この虚しい気分の時点ではエネルギーを無駄遣いしたようで、どこかでそのエネルギーを充填しなければいけないような感じです。これは後片づけをすることになってしまうので、私のめざしている後片づけをしない生活ではパソコンに向かわないほうがいいようです。

  反対にたまたま猫が遊ぶ機会をくれて遊んだあとはほんわりとても暖かな気分になります。うちの猫は私がシーツを敷こうとすると、必ずどこからどもなくとんできてシーツと布団の間にはいって遊ぼうとします。シーツの上から見つけたといって触ってあげると喜びます。猫のやわらかな感触やうれしそうな表情も見ていると、猫が遊んでもらってるのではなく、私が遊んでもらっている位楽しくなります。猫と遊ぶのは後片づけをしなくてもよい生活です。エネルギーを無駄遣いした気は全然しないし、逆にエネルギーを充填させたようです。

 後片づけをしない‘楽しみ’とは、自分のなかの空白を消さない程度の‘楽しみ’だと思っています。何にもならない空白をもつ。楽しくもない、目的もない空白です。その空白というのが猫が獲物を逃さない程度敵に襲われない程度に眼耳鼻舌身意の感覚器官の六官で眼の前の世界をとらえられる位の空白です。貪欲にアタマが満足するような楽しさを探そうとすると、この空白は消えます。今うちの二匹の猫たちは一番お日様のあたるところで同じように体をなめています。一番お日様のあたっているところがわかる位に空白をもっているということです。
 後片づけをしなくてもよいように、‘空白’のないアタマがつくる‘楽しみ’ではなく,目の前のことをジーッとみていられるだけの‘空白’のある‘楽しみ’で満足したいと思います。