雑誌の「おいしいラーメン屋一位」の反応で、
グルメ
雑誌の記事を見ると、すぐにその店に言ってラーメンを食べてみる。
「正法眼蔵」的日々人
今やるべき事がなくラーメンが食べたければ行く可能性はあるが、ほとんど雑誌の記事をみるだけで、行ってみようとはしない。
「正法眼蔵」の根底に持っている思想の出発点は‘行為’です(注1)。われわれ人間の行為というものは、主体と客体とが現実に衝突し、その衝突によって生まれる火花にもたとえられるような瞬間的事実の連続だと考えられる。主体と客体とが接触するところに生まれる世界、行為の世界、したがって現実の世界を唯一の実在する世界と考え、これをあらゆる思惟の出発点とする(注2)。行為の世界では、自分と目の前に見える現実の世界を基準にするので、自分の直観と目の前の現実の世界をきちんと見ることができなくなるような必要以上の快楽は求めません。「おいしいラーメン屋一位」の情報が入ってもその情報だけで動くのではなく、目の前の現実を見て、その現実の中から自分の直観(坐禅によって宇宙の波動と一体になった自分)で行為の選択していくのが「正法眼蔵」的だと思います。
といっても「正法眼蔵」的はけっして禁欲的ではありません。釈尊が「我ト天地有情ト同時成道ス」という言葉で表現されています。ある冬の日の早朝、あけの明星が天空にきらめく頃、豁然として自己の心身が本来宇宙の万物と一体であり、自己も宇宙もつねに生々として躍動し、かつ衰弱していくという動かすことのできない現実を悟り、またその素晴らしさにうたれたのである(注3)。必要以上の快楽を求めなくても生々として躍動していけると釈尊は教えてくれています。
注1:西嶋和夫「仏教 第三の世界観 6版」金沢文庫 163~165頁
注2:同上 169頁
注3:同上 96頁
グルメ
雑誌の記事を見ると、すぐにその店に言ってラーメンを食べてみる。
「正法眼蔵」的日々人
今やるべき事がなくラーメンが食べたければ行く可能性はあるが、ほとんど雑誌の記事をみるだけで、行ってみようとはしない。
「正法眼蔵」の根底に持っている思想の出発点は‘行為’です(注1)。われわれ人間の行為というものは、主体と客体とが現実に衝突し、その衝突によって生まれる火花にもたとえられるような瞬間的事実の連続だと考えられる。主体と客体とが接触するところに生まれる世界、行為の世界、したがって現実の世界を唯一の実在する世界と考え、これをあらゆる思惟の出発点とする(注2)。行為の世界では、自分と目の前に見える現実の世界を基準にするので、自分の直観と目の前の現実の世界をきちんと見ることができなくなるような必要以上の快楽は求めません。「おいしいラーメン屋一位」の情報が入ってもその情報だけで動くのではなく、目の前の現実を見て、その現実の中から自分の直観(坐禅によって宇宙の波動と一体になった自分)で行為の選択していくのが「正法眼蔵」的だと思います。
といっても「正法眼蔵」的はけっして禁欲的ではありません。釈尊が「我ト天地有情ト同時成道ス」という言葉で表現されています。ある冬の日の早朝、あけの明星が天空にきらめく頃、豁然として自己の心身が本来宇宙の万物と一体であり、自己も宇宙もつねに生々として躍動し、かつ衰弱していくという動かすことのできない現実を悟り、またその素晴らしさにうたれたのである(注3)。必要以上の快楽を求めなくても生々として躍動していけると釈尊は教えてくれています。
注1:西嶋和夫「仏教 第三の世界観 6版」金沢文庫 163~165頁
注2:同上 169頁
注3:同上 96頁