一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「おいしいラーメン屋一位」の反応

2007年08月26日 | Weblog
 雑誌の「おいしいラーメン屋一位」の反応で、
グルメ
 雑誌の記事を見ると、すぐにその店に言ってラーメンを食べてみる。
「正法眼蔵」的日々人
 今やるべき事がなくラーメンが食べたければ行く可能性はあるが、ほとんど雑誌の記事をみるだけで、行ってみようとはしない。

 「正法眼蔵」の根底に持っている思想の出発点は‘行為’です(注1)。われわれ人間の行為というものは、主体と客体とが現実に衝突し、その衝突によって生まれる火花にもたとえられるような瞬間的事実の連続だと考えられる。主体と客体とが接触するところに生まれる世界、行為の世界、したがって現実の世界を唯一の実在する世界と考え、これをあらゆる思惟の出発点とする(注2)。行為の世界では、自分と目の前に見える現実の世界を基準にするので、自分の直観と目の前の現実の世界をきちんと見ることができなくなるような必要以上の快楽は求めません。「おいしいラーメン屋一位」の情報が入ってもその情報だけで動くのではなく、目の前の現実を見て、その現実の中から自分の直観(坐禅によって宇宙の波動と一体になった自分)で行為の選択していくのが「正法眼蔵」的だと思います。
 といっても「正法眼蔵」的はけっして禁欲的ではありません。釈尊が「我ト天地有情ト同時成道ス」という言葉で表現されています。ある冬の日の早朝、あけの明星が天空にきらめく頃、豁然として自己の心身が本来宇宙の万物と一体であり、自己も宇宙もつねに生々として躍動し、かつ衰弱していくという動かすことのできない現実を悟り、またその素晴らしさにうたれたのである(注3)。必要以上の快楽を求めなくても生々として躍動していけると釈尊は教えてくれています。

注1:西嶋和夫「仏教 第三の世界観 6版」金沢文庫 163~165頁
注2:同上                     169頁
注3:同上                     96頁

夏目漱石の「道楽と職業」を読んで

2007年08月19日 | Weblog
 夏目漱石の「道楽と職業」を読みました。職業は他人本位で道楽は自己本位と書いてあります。注(1) でも最初はそんなものかな、と読んでいましたが、疑問が生じました。
 自分の置かれた立場で仕事をしていかなくてはならない場合も多いでしょうから、自分を殺してでも他人からいわれた通りに他人本位で仕事をすることもあるでしょう。西嶋老師は定年までサラリーマン生活をなさりました。でもサラリーマン生活の間毎日坐禅をなさり、「現代語訳正法眼蔵」やその他の著書の執筆をされています。
 西嶋老師が言っておられることは、仕事と日常生活と区別をせず、いつも目の前の事を一所懸命やりなさい、ということです。ごはん食べるときも、風呂にはいるときも、仕事するときも、同じ姿勢で対しなさいと言われています。
 私は、それは仕事を含めて自己本位だと思います。坐禅をすることによっていったん、主観的な自分の気持ちや客観的な周りの状況を、自分の内にとおす事によって自分のものにします。坐禅が、その仕事は変えたほうがいいとか、辛くても続けたほうがいいとか、教えてくれると思います。それは同じ仕事をするにしても、いやいやするのではなく、自分で納得して自分主体ですることです。
 他人本位から自分本位にかえるのが坐禅だと思います。
 
 
注:晶文社「夏目漱石」139頁

夏目漱石の「私の個人主義」を読んで

2007年08月12日 | Weblog
 夏目漱石が死の1年前に、「私の個人主義」という題で講演したものを読む機会がありました。
 「自己本位」という四字をようやく考えてから、非常に自信ができ、心を安んずることができた、これに対し、「自己本位」を考えるまでは「まったく他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事ことにようやく気が付いたのです。」と書かれています。
 「自己本位」ということに言及している箇所を摘記してみました。(注2)
 「自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。いままで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。」
 「その時私の不安はまったく消えました。私は軽快な心をもって陰鬱な倫敦(ロンドン)を眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。」
 「その時確かに握った自己が主で、他は賓(ひん)であるという信念は、今日(こんにち)の私に非常の自信と安心を与えてくれました。私はその引続きとして、今日なお生きていられるような心持がします。」
 「ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずることができるのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首をもたげて来るのではありませんか。」
 私はこれを読んでいて、私が坐禅に出会って感じられるようになったことそのままだと思いました。
 私もそれまで浮き草のように漂っておりましたが、坐禅をするようになってからは、坐禅の時に直観が指図してくれるから大変強くなりましたし、心から安んずることも以前よりもできるようになったのです。
 「正法眼蔵 現成公案」の巻に次の文があります。
 「仏道をならふといふは、自己をならふなり」。(注3)
 また、「正法眼蔵 行事(上)」の巻には、「実帰」と書かれていますが、「実帰」とは、「本当の帰着点」ということであり(注4)、内山興正老師は、「一口にいえば、『自己が真実のゆきつくところへゆきついて安らう』こと」であると言っています。(注5) 
 以上からも分かるように、「正法眼蔵」は、まさしく「この自己とは何か」ということを真正面から究明することを求める教えだと思います。
 「正法眼蔵 弁道話」の巻に
 「自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊戯するに、端坐参禅を正門とせり。」(注6)自受とは自己を肯定し自己に安住することです。
夏目漱石が行き着いた「自己本位」という、ようやく掘り当てたものは、坐禅ととても近いような気がします。でも概念上だけだったのが残念です。
  

(注1)晶文社「夏目漱石」、81~83頁及び78頁
(注2)同上81~86頁
(注3)西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵第一巻 第九版」金沢文庫、86頁
(注4)西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵第五巻 第七版」金沢文庫、182頁
(注5)内山興正「自己-ある禅僧の心の遍歴-」大法輪閣、150頁
(注6)西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵第一巻 第九版」金沢文庫、11頁

「考えが浮かぶ」と「考えを追う」

2007年08月05日 | Weblog
 猫を見ていると、どんな時でもパッと基本の姿勢に戻ります。どんなに楽しそうに遊んでいる時でも、何か食べている時でも、少しでも危険な状態を察すると、遊ぶのも食べるのも止めて、基本姿勢に戻ります。
 坐禅も、基本姿勢に戻る訓練だと私は思います。「考えを追う」から「考えを浮かぶままにする」基本姿勢に戻る訓練です。
 坐禅の時、何か考え事をしているなと気が付くと、考え事が消えます。またすぐ考え事をしだしますが、また考え事をしているなと気が付くとまた消えます。だから「考えを追わない」で「考えを浮かぶままにする」状態に立ち返る訓練をしているのです。坐禅を毎日やっていると日常生活でも、あ、これは考えを追っているな、と気が付くようになります。そうすると考えに振り回されない客観的な目で日常生活を見ることができるようになるような気がします。けんかをして自分の感情をどうすることもできない時や、自分の考えのなかにはまってしまって抜け出せなくて苦しい時など、ふっと楽になります。
 「正法眼蔵 弁道話」の巻に「はなてばてにみてり」(注)という句があります。
私は考えでもって何かをつかむことを止めて、考えを放せば、人間に本当に必要なものが手の中に満ちることと解釈しています。

注:西嶋和夫「正法眼蔵を語る 弁道話」金沢文庫 23頁