一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

カーネーションの中心

2017年06月11日 | Weblog
 ダイニングテーブルのうえにカーネーションの花がありました。それを何気なくみているうちに中心点はどこなのかとつい探してしまいました。花びらを束ねている一点があり、花びらが勝手にアットランダムにあっちからこっちからとでているわけではないようです。

 その束ねている一点をみていると、安心感を感じている自分に気がつきました。部屋でも,ものがただアットランダムに散乱しているとイライラするけれども、分類ごとに束ねてあると安心感がでます。そんなことを考えていたら、花びらを束ねている一点があるということに関連して次ぎの言葉が思い浮かびました。

 「無始の時より来(このかた)、界は一切法の等しき依なり。此れ有るに由りて、諸趣・及び涅槃の証得あり。」 『摂大乗論』より

 界より迷いの世界と悟りの世界が広がっているというのです。ひとつのものより迷いの世界と悟りの世界が広がっているというのです。普通私たちは、まっさらな悟りの世界に汚れがついた迷いの世界があって、その汚れを落とせば悟りの世界になると考えます。この考え方は汚れが悟りとは別にあるという考え方です。だから、迷いと悟りの世界が同じ一点から生じているという考え方とまったくちがいます。

 この二つの考え方では、修行法もまったくちがいます。悟りと煩悩が別々にあるとする考え方では、煩悩が起こらないように戒律を厳しく守ります。

 迷いと悟りの世界が同じ一点から生じているという考え方では、生じている根は同じだから、そのベースのステータスを変えようとして、煩悩が浮かんできてもそれを無くそうとしないで坐禅をしていく修行です。。例えば、東洋医学と西洋医学の差のようなものです。西洋医学では、悪いところがでてきたら、その悪いところをを無くそうとします。でも、東洋医学では、その病人の生命エネルギーをあげて根本から治そうとします。

 上記の悪いところを無くそうとするのと、生命エネルギーをあげて根本から治そうとすることに関連して次ぎのことが思い浮かびました。

 私はここ数年老犬・老猫の介護をしています。猫は今年4月に17歳で天国にいってしまいましたので、今は老犬の介護をしています。犬は足もよたよたしているし、耳も聞こえないし、眼もいつ見えなくなるかわからない状態です。そんな状態なので、悪いところがでてくると即病院につれていって不安を軽くしてもらおうと必死です。そんな状態のなかで、ふと新聞のなかで数学の本や講演を行っている森田真生氏の言葉が私をとらえました。

 「数学は、計算だけでは成り立たない。単に正しい答えを見つけるだけでなく、その答えの意味するところを『わかる』ことを目指すからだ。では『わかる』とはどういうことか。それは煎じ詰めれば、わかりたい対象に共感し、心を通わせ合うということではないだろうか。」

 これを読んで、犬猫の介護は、不安にいちいち右往左往することではなく、どんなに不安があったとしても、こころを通わせ合うという一点に焦点を合わせてやろうと思いました。私と犬猫の間に流れる信頼感であったり、いとおしいと感じるこころであったり、何気ない仕草に対する笑いであったりです。

 私は、表面上の不安に右往左往していて、その奥のコアの一点に目を向けてなかったのだということに、この記事を読んで気がつかされました。

 不安材料を無くそうとしたら、そこで物事は終わってしまいます。ただ、いやなもの、邪魔者で終わりです。でもその先に、こころが通いあうものを見るようにすれば、お互いの間に流れるものからちからが生まれ、あたたかいこころが生まれます。私は、それがすべてのものを束ねるコアの一点ではないかと思うのです。