私はここ1週間のうちに、説教しているのを見たり、説教された話を聞いたりして、いかに説教をする人が多いことかとびっくりしました。
具体的に説教する箇所を、文藝春秋掲載の青山七恵の芥川賞受賞作品の「ひとり日和」から引用します。(注)
「大学行かないの」
「うん、今さら」
「今からでも遅くないでしょ。散々ぶらぶらしたんだからさ、このへんで何かやれば」
「まだ言うんだ」
「毎日ほっつき歩いてるわけ」
「いや、バイトをしてる」
「何の」
「お酒注ぎとキオスク」
「は?」
「コンパニオンと駅の売店。笹塚駅。知ってる?」
母は、ふうん、とため息のような返事をした。
「いかがわしい仕事じゃないよ。一ヶ月、十万は稼いでるよ」
少し自慢したかったのだが、言った瞬間後悔した。母の前では、自分の持っている何もかもが、くだらなく感じる。
「あんたねえ、大学へは行っておいたほうがいいよ。あとになって後悔するよ。あのとき勉強しとけばよかった、って」
この会話を「正法眼蔵」的にするならば、
「大学行かないの」
「うん、今さら」
「あ、そう」
で終わりです。
「正法眼蔵」的には、相手を批判したり助言することはしないで、ただありのままに相手の言っていることを聞くだけです。「正法眼蔵」は手を代え品を代え、坐禅することを言っているだけです。坐禅をしている時は、音が聞こえても何かが見えても、聞こえるままにし見えるままにしています。音や見えたものをありのままに受け入れ、それに対して手を出すことはありません。それと同じで、他人との会話でも、ありのままに受け入れ、それに対して好き嫌いや是非や相手に影響を与えるようなことは言いません。
私は人間関係の基本は安心感だと信じています。「母の前では、自分の持っている何もかもが、くだらなく感じる。」と上記引用文の中にもあるように、説教をする人に対しては、何を言っても否定されるように感じてしまって、本当に自分が思っていることを言わなくなってしまいます。そのうち本当の自分も分からなくなってしまうかもしれません。
注:文藝春秋平成19年(2007年)3月号 395頁~396頁。
具体的に説教する箇所を、文藝春秋掲載の青山七恵の芥川賞受賞作品の「ひとり日和」から引用します。(注)
「大学行かないの」
「うん、今さら」
「今からでも遅くないでしょ。散々ぶらぶらしたんだからさ、このへんで何かやれば」
「まだ言うんだ」
「毎日ほっつき歩いてるわけ」
「いや、バイトをしてる」
「何の」
「お酒注ぎとキオスク」
「は?」
「コンパニオンと駅の売店。笹塚駅。知ってる?」
母は、ふうん、とため息のような返事をした。
「いかがわしい仕事じゃないよ。一ヶ月、十万は稼いでるよ」
少し自慢したかったのだが、言った瞬間後悔した。母の前では、自分の持っている何もかもが、くだらなく感じる。
「あんたねえ、大学へは行っておいたほうがいいよ。あとになって後悔するよ。あのとき勉強しとけばよかった、って」
この会話を「正法眼蔵」的にするならば、
「大学行かないの」
「うん、今さら」
「あ、そう」
で終わりです。
「正法眼蔵」的には、相手を批判したり助言することはしないで、ただありのままに相手の言っていることを聞くだけです。「正法眼蔵」は手を代え品を代え、坐禅することを言っているだけです。坐禅をしている時は、音が聞こえても何かが見えても、聞こえるままにし見えるままにしています。音や見えたものをありのままに受け入れ、それに対して手を出すことはありません。それと同じで、他人との会話でも、ありのままに受け入れ、それに対して好き嫌いや是非や相手に影響を与えるようなことは言いません。
私は人間関係の基本は安心感だと信じています。「母の前では、自分の持っている何もかもが、くだらなく感じる。」と上記引用文の中にもあるように、説教をする人に対しては、何を言っても否定されるように感じてしまって、本当に自分が思っていることを言わなくなってしまいます。そのうち本当の自分も分からなくなってしまうかもしれません。
注:文藝春秋平成19年(2007年)3月号 395頁~396頁。
今日T先生の絵を見てきました。