一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「そこに於いて」

2013年11月17日 | Weblog

 紀元400年頃世親に書かれた『唯識二十論』に次のような文があります。

 「実に、地獄の衆生の何れの業によってでも、そこに於いて、前述の如き大種の生起と、又転変とがあると妄分別されるが、その諸行の習気は彼等の識の相続の中に存するのであって、他所に存するのではない。」

 上記の文は、これこれの苦が私たちを苦しめてると思ってこれこれをどうにかしようとしますが、私たちを苦しめてる本当の原因は目に見えてるものではなくて、識の相続の中に於いてある、と言っています。

 上記で言っていることの喩えをあげると、年取って老人になることは苦を生みだすと考えます。それが、『唯識二十論』の言葉によれば、「そこに於いて大種の生起と、又転変があると妄分別される」にあたるわけです。苦が生じる原因は「そこに於いてあるのではない」といっています。では、どこに於いて苦の原因はあるのか、というと、「識の相続の中に於いてある」いっています。

 “識の相続の中”とはどこに於いてなのでしょうか。
識というのは、あれ、これはと、こころが何かに向かって働く精神的作用です。

 苦の本当の原因は、あれ、これは、と何かに目が向くことに於いてあるということになります。逆を言えば、目の前に苦を生じさせるものがあったとしても、あれ、これはと目が向かなければ苦は生じないということになります。

 あれ、これはと、何かに目が向くときは、そこには必ず心のブレーキやアクセルがかかります。何かいやなものが目の前にきたときには、これはいやだと心にブレーキがかかり又逆に楽しそうなものが目の前にきたときには、もっと欲しいと心にアクセルがかかります。

 病気や死が苦を生じる原因ではなく、病気や死に対して心がブレーキやアクセルをかけることが、苦の本当の原因だということになります。

 良寛さんが次のような歌を詠んでいます。
「しかし、災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候。」