『正法眼蔵 光明の巻』に「仏光非青黄赤白等」(註1)という言葉があります。(仏光は私たちの眼で見る青や黄色や赤や白等の色ではない)
また最近頭から離れない言葉に「湛然(たんねん)」があります。水をたたえて静かな様子という意味だそうです。
この二つの言葉を見ていて、色かたちじゃないのならばいったい色かたちに代わるものは何かと考えたときに、「湛然」という言葉が思い浮かんだのです。
コマーシャルをみていると欲望を充足させるものばかりを宣伝しています。テレビをみていても食べ歩きや温泉の番組ばっかりやっています。鳥でもとまり木があって休んでいますが、人間もおいしいものを食べて温泉にでもはいってとまり木で休みたいとおもうのは当然です。
でもとまり木にとまりたいのは本来の姿ではなくて、悪魔のささやきかもしれません。
福岡伸一氏の著書のなかに、
「動き続けてい現象を見極めること。それは私たちは最も苦手とするものである。だから人間はいつも時間を止めようとする。止めてから世界を腑分けしようとする。顕微鏡。試験管。写真。マップラバーたちの地図。数学者たちが作り出した微分。そして私たちの脳。あるいは認識そのもの。治すすべのない病。」(註2)
私たちの脳はいつも時間を止めようとしています。動き続けている現象をみるのではなく静止した状態をみたいと脳は働きます。だから認識もいつも時間をとめようとして見ようとします。 色かたちあるものとして認識しているときは、脳が動き続けている現象をすこし静止した状態に操作して私たちに認識させているように私には思えるのです。
私たちの見ているかたち=色というのは、本来動的であったものが、あたかも静的なものであるかのようにフリーズされた、無惨な姿です。それはある種の幻、影である、と福岡氏は言っています。
そうすると本来の認識というのは、私たちの眼に見えものでもなく、耳に聞こえるのでもないものです。
では本来の認識というのは、何かというと、私はこの「湛然」の言葉を思い浮かべます。
動的なものをとらえられるのは本来あるべきエネルギーが100%のときだけ可能です。仏教で「無漏」という言葉があるようにエネルギーが漏れてない状態のときです。みずみずしく静かな様子。
眼に見える、耳に聞こえる認識ではなく、水をたたえて静かなものを観じとっていくのが本来の認識ではないかと。嵐のように激しい天気や人生でも嵐のような変化のまっただ中にいても、その根底に水をたたえて静かなものがあるものを観じとっていく認識です。
註1:道元著・水野弥穂子校注『正法眼蔵(一)』岩波文庫 290頁
註2:福岡伸一『世界は分けても分からない』講談社現代新書 273頁
また最近頭から離れない言葉に「湛然(たんねん)」があります。水をたたえて静かな様子という意味だそうです。
この二つの言葉を見ていて、色かたちじゃないのならばいったい色かたちに代わるものは何かと考えたときに、「湛然」という言葉が思い浮かんだのです。
コマーシャルをみていると欲望を充足させるものばかりを宣伝しています。テレビをみていても食べ歩きや温泉の番組ばっかりやっています。鳥でもとまり木があって休んでいますが、人間もおいしいものを食べて温泉にでもはいってとまり木で休みたいとおもうのは当然です。
でもとまり木にとまりたいのは本来の姿ではなくて、悪魔のささやきかもしれません。
福岡伸一氏の著書のなかに、
「動き続けてい現象を見極めること。それは私たちは最も苦手とするものである。だから人間はいつも時間を止めようとする。止めてから世界を腑分けしようとする。顕微鏡。試験管。写真。マップラバーたちの地図。数学者たちが作り出した微分。そして私たちの脳。あるいは認識そのもの。治すすべのない病。」(註2)
私たちの脳はいつも時間を止めようとしています。動き続けている現象をみるのではなく静止した状態をみたいと脳は働きます。だから認識もいつも時間をとめようとして見ようとします。 色かたちあるものとして認識しているときは、脳が動き続けている現象をすこし静止した状態に操作して私たちに認識させているように私には思えるのです。
私たちの見ているかたち=色というのは、本来動的であったものが、あたかも静的なものであるかのようにフリーズされた、無惨な姿です。それはある種の幻、影である、と福岡氏は言っています。
そうすると本来の認識というのは、私たちの眼に見えものでもなく、耳に聞こえるのでもないものです。
では本来の認識というのは、何かというと、私はこの「湛然」の言葉を思い浮かべます。
動的なものをとらえられるのは本来あるべきエネルギーが100%のときだけ可能です。仏教で「無漏」という言葉があるようにエネルギーが漏れてない状態のときです。みずみずしく静かな様子。
眼に見える、耳に聞こえる認識ではなく、水をたたえて静かなものを観じとっていくのが本来の認識ではないかと。嵐のように激しい天気や人生でも嵐のような変化のまっただ中にいても、その根底に水をたたえて静かなものがあるものを観じとっていく認識です。
註1:道元著・水野弥穂子校注『正法眼蔵(一)』岩波文庫 290頁
註2:福岡伸一『世界は分けても分からない』講談社現代新書 273頁