一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(行深般若波羅蜜多時)

2008年08月28日 | Weblog
 前回のブログで宇宙というジグゾーパズルの空いている部分に自分というピースを合わせてはめこんだとき、「空」となって自分を忘れると書きました。ではどうして自分のピースを合わせる空いている部分の形を知ることができのでしょうか。

 体をつかって体ごと隣接するピースに体当たりして感じとっていくしかないわけです。体ごと体当たりして空いている部分の形を知ります。それが「行」です。私たちのタンパク質の分子もランダムな熱運動を繰り返し、自分の相性をためしているうちに、納まるべき場所に納まるといいます。ランダムに体中を駆けめぐって自分に合う分子を探しているわけです。これは分子が体をうごかして体で感じとることです。

 ここでポイントなのは、ランダムだということです。的を絞って自分の納まるべき場所に直行するのではありません。体中体当たりして形を探っていくということです。隣接するピースを無視して勝手にあたまでこんなかたちのピースをいれたらうまくいくんではないかと剰ったり欠けたりするピースを作ったりするのではありません。

 だから、「行深般若波羅蜜多時」(真理に到達するために深く実践していたとき)の「行」というのが真理に到達するためにこれしかないと言うほど重要だと思います。教典のなかに真理をみつけるのでもなく、どこかに籠もってみつけなければみつからないというものでもありません。「行」をすればどこでも真理はみつかります。体のなかの分子のふるまいがそれを裏付けしてくれています。

 私たちの体の分子は瞬時に体中を駆けめぐることができますが、私たちは自分の納まるべき場所を探すのにあれもこれも瞬時にはできません。試行錯誤してるうちに人生が終わってしまいます。紆余曲折して自分の納まる場所へ行き着くかわりに、直線で行き着くために「坐禅」があります。

般若心経(照見五蘊皆空 4)

2008年08月26日 | Weblog
 「空」の本当の自分のピースではない自分で勝手につくったピースの具体的な例を挙げていきたいと思います。

1.自分のエゴの好き嫌いで行動することです。

  好き嫌いを突き詰めていくと、最終的には若さは好き、老いや死は嫌いになるのではないでしょうか。好き嫌い基準で生きていくことは、闇の部分を見ないで、避けていくことになります。でも最終的な老いや死からは誰も避けることはできません。避けてとおれない闇の部分も共存しているのが現実です。でも、闇の部分をみることは思いで受けいれようとしても無理です。生きたい生存本能をもちながら、必ず死なねばならぬ必然性をもつ絶対矛盾は思いでは絶対受けいれられません。だから闇の部分、死を乗り越えるためには、思いや観念でどうにか造作しようとしても無理なのです。


2.何かを期待して行動することです。

 私たちは自分の期待したように事が運ばない、相手が動いてくれないことに対しての怒りや不快感にふりまわされています。
 小池龍之介「『自分』から自由になる沈黙入門」によれば、
  『人の心てふものは、身近な人に対するほど期待も要求も強くなるものなり。ドウシテコレヲシテクレナイノ?コレクライシテクレテアタリマエデショ?・・・・・・・・・・そして要求や期待といった「欲」が満たされないと、当然のように不満が留まって相手への怒りや不快感が負のオーラとして発せられ、お互いの糸がこんがらがってゆくようにおもわれます。』(注1)

 期待をもてば、どうしても満たされないと不満が溜まり、相手への怒りや不快感が負のオーラとして発せられます。でも期待というのは、頭で想像しただけで、想像したとおりになるかならないかは、現実の世界ではどうでもいいことで、現実の世界というのは目の前の事実だけです。


3.価値観で行動することです。

 価値観が違うからあの人とはつきあえない、とか価値観の相違で離婚した、とか価値観はある程度自分のやっていることの正当性になります。でも価値観てそんなに正当性があるの、と疑問になります。人間は誰かと一緒にいても、自分は黙って真理を実行するだけです。価値観というのは空に浮かんでる雲みたいなものです。価値観からでる自分のプライドであったり、価値観にあわないことをやってしまった自責の念であったり、価値観にあわないものに対する説教であったり、価値観に合わせようとする一生懸命であったり、価値観から生まれる雲はいろいろです。でも雲のその奥に青い空があります。

 前永平寺住職の宮崎禅師が次のように言っておられます。

「自然は立派やね。私は日記をつけておるが、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた。ほとんど違わない。規則正しい。そういうのが法だ。法にかなったのが大自然だ。法にかなっておる。だから、自然の法則をまねて人間が暮らす。人間の欲望に従っては、迷いの世界だ。人情によって曲げたり縮めたりできないもの、人間が感情によって勝手に変えられない自然。そういう生活をして、生きておられたらいいね。」(注2)

 「朝になれば日が昇り、夕方になると日が沈むのと同じで、朝になったらちゃんと起きて、まず坐禅をする。それが当たり前のことで、それを崩すことは、どうにも不自然なんやと思うんや。」(注3)

 太陽は、感情や欲で動きません。一年中決まった時間に決まった道を動きます。私たちは太陽に影響されています。そうすれば私たちも太陽にしたがって日々の生活のリズムを崩してはいけないような気がします。

 太陽には価値観なんてありません。法にしたがうというのは、価値観よりも太陽にしたがうということではないでしょうか。

注1:小池龍之介「「自分」から自由になる沈黙入門」幻冬社 120頁
注2:石川昌孝「坐禅をすれば善き人となる」講談社 232頁
注3:同上   228頁
 

般若心経(照見五蘊皆空 3)

2008年08月20日 | Weblog
 2つ目は空いている部分に自分のピースを合わせるのではなく、空いている部分の形を無視して自分でピースをつくることです。

 「正法眼蔵 弁道話の巻」に次ぎのように書かれています。

「承当することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたづらに蹉過す。この知見によりて、空華まちまちなり。」(注1)

 (現実に合当することができないために、頭の中だけでいろいろなことを考えようとして、そういうことが習慣になっているために、頭の中で考えられたものが実体だと考えて、れを追い求めるところから、本当の真実がどっかに行ってしまって、うかうかと通り過ぎてしまう。そのようにいろいろなことを頭で考えるために、これらのものは全部理屈ではあるが、お互いに議論を重ねて終わるときがない。)(注2)
「正法眼蔵」にもはっきり現実に自分のピースを合わせ当てはめようとしないで、頭の中だけでの考えという自分のピースを勝手につくりだすことが、真実に巡り会えない理由だと書いてあります。

 確かに現実というジグソーパズルの空いている部分に自分を合わせるのではなく、それを無視して自分でつくるピースというのはどんなかたちのピースでも作れます。「正法眼蔵」のなかで「空華まちまち」と言われているように頭の中で考えられることは無限にあるのです。ですので思考で物事を決めていかなければならないときは、つねにあれにしようか、これにしようかと、こころは揺れ動いてひとときなりとも不安から逃れることはありません。また自分の頭でつくりだす思考というのは自己中心性であり、偏りがあり、あいまいです。根のない浮き草のように漂っている感じです。また「正法眼蔵」には、この頭の中で自分で勝手につくった観念のことを、「水中の月」とか「かがみのうちのかげ」という表現であらわしています。

 この宇宙というジグソーパズルの自分を取り囲む八つのピースでできた空間を無視した自分で勝手につくったピースをつくらないために坐禅はあります。

 「空」のほんとうの自分のピースというのは、自分から頭をつかわなくても、自然にでてくる思いです。頭というのは、自分から頭を使わないと何も考えは浮かばないと思っていましたが、自分から頭を使わない方が自然に頭がフル回転するんだそうです。

 自分から頭をつかわず、自然にでてくる思いというのは坐禅の境地です。坐禅をしているときでも何か考えは浮かんできますが自分の姿勢のほうに関心をもっていきます。背骨は真っ直ぐになっているか、あごは引いてあるか、目線は斜め下になっているか等です。頭よりも体のほうに意識をもっていくことで考えが浮かんでもそれ以上考えを追っていくことができなくなります。この肉体で正しい座相をするという不思量底をネラウ(思量する)のが「不思量底の思量」であります。それを繰り返しているうちに頭からではない体からの声、私の力ではない本源的生命の声というような声が聞こえてきます。

 「正法眼蔵 心不可得の巻」にも坐禅をしてる人の体全体がすなわち心というものの実体であると書かれています。

 「唯心これ唯心なるべし、是仏即心なるべし」(注3)

 (心といってみても、それが人によって、言葉によって説明されるというふうなものではなくて、坐禅をしておる各人がまさに仏であり、その体全体がすなわち心というものの実体である。)(注4)

「正法眼蔵」では体と心とを別々に分けてとらえることはありません。体が心であり、心が体であるというとらえ方をします。


 上記の体からの声、本源的生命の声というのは、言い換えれば自分でも知らない知性も理性も関わらない、水面下の自分もひっくるめた自分なのではないでしょうか。福岡伸一「生物と無生物のあいだ」を読んで気がついたのですが、体は自分の知性や理性と関係なく、自分の水面下で天文学的数字の分子を操って体の維持存続のためにひとときも滞らず動いてくれています。人間はロボットではなく、感情をもっています。そうすれば、水面下の分子レベルの動きは、単に機会のように体を動かすだけではなく、人間にとって一番良い感情も生みだしてるのではないでしょうか。

 また自然界の生き物は頭のなかの考えにとらわれていては、敵におそわれてしまうし、獲物も逃がしてしまいます。それより体からの声、本源的生命の声に従って敵におそわれないようし、獲物を逃がさないようにします。人間の場合は直接頭の考えにとらわれて命を奪われるということはないでしょうが、ひそかに不快感が蓄積されてゆくと思います。小池龍之介「『自分」から自由になる沈黙入門」によると「漫然とした不満」「つまらない」「不安」「寂しい」「悲しい」「いらいら」「ムカツキ」「対象を消したい」「殺意」の順です。

 体からの声、本源的生命の声というのは造作できません。体に今不安だけど不安じゃないようにしろといっても、心臓はドキドキするし、汗がでてきたり眠れなくなったりして造作できません。頭の中で作り出す思考は数限りなく作ることはできますが、体からの声、本源的生命の声というのは、まわりのピースによってもう決められています。一つしかありません。頭でこんなはずではない、といっても、体が正確に反応します。

 一つしかないので、「自己が真実ゆきつくところへゆきついて安らう」ことであり、「自受用三昧」といって、自己を肯定し自己に安住することである、といわれています。

注1:西嶋和夫「正法眼蔵を語る 弁道話」金沢文庫 31頁
注2:同上  129頁 参照
注3:西嶋和夫「正法眼蔵提唱禄 第三巻上」金沢文庫 209頁
注4:同上同頁 参照


般若心経(照見五蘊皆空 2)

2008年08月17日 | Weblog
 私は「空」になれない条件がいくつかあると思っています。

 一つはジグソーパズルのピースを全部使わないで一部のピースだけつかって組み立てて作った空いている部分に自分のピースをはめ込もうとすることです。

 全部のピースをつかって組み立てて作ったパズルは、人間に置き換えると身心の働きが十全の状態です。でも一部のピースだけをつかって組み立てて作ったパズルは十全の何割かの働きしかありません。一部だけつかって組み立てて作ったパズルの例をあげてみたいと思います。

 楽しいこと、刺激のあることを泥棒のように物色して暮らすことです。いろいろな感覚的なものの楽しみを追い求め、それに引きずり廻されることです。

 現実はもの足りない、つまらないもので、なにかもっと楽しいこと、刺激的なものを探してなくてはいけないものなのでしょうか。「正法眼蔵」では、現実は、目の前にみえる世界は、静寂であり、恵み深いものであるとしていて、目の前の世界を尊敬の念をもって、最高の教えとして受けとめています。

 先日テレビで世界一周する豪華客船の番組を見ていて、これだけ刺激を求める必要があるのだろうかと疑問をもってしまいました。ひとときも退屈のしないような施設、寄港先での刺激等です。目の前の世界をつまらないのでもっと楽しいものにしようとするよりも、十分満ち足りた世界ととらえるのが仏教です。

 だから猫はじーっとしています。目の前の世界に絶対の信頼をおいて自分から刺激的なもの、楽しいことを探そうとはしていません。良寛さんもそうです。人里離れたあばら屋で一人で托鉢だけをして暮らしました。彼は寺の住職になろうと望めばなれただろうし、書を売ればいくらでも高く売れたのに、あえて托鉢だけで暮らしました。そのような生活を望んだ理由は、やはり目の前の世界を十分満ち足りた世界ととらえ、それ以上の刺激を求めず、見えるままにし、聞こえるままにし、思うままにしたかったからだと思います。次ぎの歌は、刺激をもとめない平安な気持をよくあらわしているのではないでしょうか。

 木の葉散る森の下屋は聞き分かぬ
    時雨する日も時雨せぬ日も
   (木の葉が散ってくる森陰の草庵にこもっていると、時雨の降る日も降らない日も    同じ音がして、聞き分かけることができない。)(注1)  
 どんなに寂しくても、寂しさから逃げないのは、いま自分が身をおいている目の前の世界を十分満ち足りた世界をとらえているからだと思います。

 目の前の世界に満足せず、楽しいこと、刺激的なことを追い求めてもどこに満足点を定めるのか難しいと思います。どんなに刺激を求めても楽しいことを追い求めてもきりがないのではないでしょうか。仏教に‘六道輪廻(りくどうりんね)’という考え方があります。‘地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上’の六つを指します。人間が仏教的真理を体得しない場合、因果関係の連鎖に操られて、この六つの境涯を経廻ると主張されます。地獄とはこの世が思い通りにならない苦しみの境涯をいう。そしてこの苦しみの境涯にあって欲求の充たされないままに生活していくことにより、欲求はさらに高まり病的に昂進する。この欲求が病的に昂進した状態、これが餓鬼に境涯である。かくて餓鬼は充たされぬ欲求の充足に狂弄する。これが畜生の境涯である。そしてこの畜生の境涯における欲求の無秩序な充足は人間の真心にも決してよい影響は与えず、身心の調和が破れ、いらいらとした忿満が鬱積する。またに忿満が鬱積するばかりでなく、現実に狂暴な行動となって現れる。これが阿修羅の境涯である。狂暴な行動の一過した後には、やりきれない後悔と生きの消沈とが訪れる。愚にもつかない繰り言をならべながら、やや人間らしい小康状態を保つ。これが人間の境涯である。しかいこのような小康状態も長くはつづかず、人間はほんのつかの間の小康状態を自分自身の努力によって獲得した理想の境涯と思い込み、自分自身があたかも人間以上の理想的な存在ででもあるかのごとくに錯覚する。これが天上の境涯である。そしてこのように人間が現実を無視し思い上がり、自分自身を人間以上のものと錯覚するところから、現実と合致しない不当な欲求がうまれ、この欲求を充足しえない結果、人は再び最初の地獄の状態に突き落とされていく。(注2)

 この六道輪廻の考え方からしても、回り続けるのですから、きりがないのです。

注1:倉賀野 恵徳「意訳 蓮の露」山喜房仏書林 25頁
注2:西嶋和夫「仏教 第三の世界観 六版」金沢文庫 184頁~185頁



般若心経(照見五蘊皆空 1)

2008年08月15日 | Weblog
 これから「般若心経」についてトライしてみたいと思っています。今日は「般若心経」の「照見五蘊皆空」について考えてみます。

 「空」は観念的に苦しみはないと思えばないのだ、とか今見えているものは本当は見えていないんだの次元で理解しようとすれば、絶対無理のある考えだと思います。

 わたしは、「空」というのは宇宙というジグソーパズルの自分を取り囲む八つのピースでできた空間に自分のピースがぴったりとはまった状態だと思います。そのときは胃が正常に働いていてくれるときは胃を忘れているように私たちも自分を忘れています。それが「空」ではないでしょうか。

 「正法眼蔵 授記の巻」にも、「おまえは仏である」という保証が与えられるのは自分自身が現に身心をおいている現実と一体になった瞬間にささやかれると書かれています。私たちが普通考えている善いことをやったり、やれるようにになった時に「仏である」とささやかれるように思いますが、そのようなことは書かれていません。善いことをやったり、やれるようになるのは、現実と一体になった結果ついてくるものです。

また頼住光子「道元」にも次のように書かれています。

 「真の主体性は、日常生活における自己同一的に完結した自己のレベルにおいてではなく、自と他が無文節な全体をなす『空そのもの』への自覚的還帰と、そこからの現成を通じて、動的に保持されるものなのである。このような自覚点としての『有時』こそが、日常世界における自己完結性から解き放たれて、世界との一体性を回帰する一瞬『而今』なのである。」(注1) 

 他に「空」をあらわす表現としては、自分が目の前の世界と完全に一体となったときに感じられる安心感、究極の本当の自分としての感じ、生まれてくるまえのふるさとに帰った感じです。

 また「正法眼蔵」全編はある意味からすれば、殆どこの問題だけの参究に費やされたと解することができる、と言われている問題『主観と客観の接触、交叉の実存的な場、実存的な時間観』も、「空」は何かというヒントを与えてくれていると思います。これは主観と客観の接するところでないと「空」は存在しないということになります。パズルピースがぴったり合わないと接触はないのですから。

 「空」は宇宙のジグソーパズルに自分のピースがぴったりとはまった状態なのでこの二つの要素に迫ってみたいと思います。

 一つ目の宇宙のジグソーパズルに迫ってみます。

 宇宙のジグソーパズルは全部のピースをつかわなければパズルは完成しません。一部のピースだけではまったく意味がないのです。宇宙の場合は一目一目にジグゾーパズルのピースが変化するので一目に全ピースでパズルを完成させなくてはならないので、一目で全体を観なくてはなりません。各々区切ってとらえていては、一目に全体を観れません。

 「正法眼蔵 坐禅箴」に『非思量』という表現が古来坐禅の本質を表すきわめて重要な用語として「正法眼蔵」の中でもしばしば語られます。この考えるとか考えないを超越した『考えることではない』‘世界’というのが、上記の一目に全体をみることです。

 目の前に展開する世界を個々としてとらえるのではなく、全体として世界を体得すること、直観的に把握することです。何言っているのだ、私たちはリンゴでも見える側しか見えなくて、裏は見えないだろうと考えますが、そういう感覚器官ですべてがとらえられるという意味ではなくて、身体が全体をかんじとるというとらえ方です。全体とは、目にみえるもの、耳に聞こえるもの、肌で感じるものはもちろんですが、自分でも意識できないもの、感覚器官でとらえられないものまで含まれます。

 二つ目の自分というピースに迫ってみます。

 自分というピースは自分をとりまく8つのピースかたちによって決まってしまいます。自分で自分のかたちはきめられません。頼住光子「道元」のなかにも「自己」について次のようにかかれています。
 『見られる対象の成立が、同時に見る「自己」の成立なのである。』『全存在が一つの全体という結び合い、連関をなしているなかでの、すばらしい一つの全体のなかの一つの存在として他との関係によって決まっていく「自己」である。』(注2)

 そしてまわりのピースによってきまる自分というのは「本当の自分」です。「本当の自分」は生まれた境遇、環境、受けた教育、ならった風習、してきた習慣、生きてきた経験、その他すべて偶然的なものの寄せ集めの自分を解体した「本当の自分」です。透明、正気の自己に帰ることだといわれています。解体してなければまわりのピースによってきめられたかたちに合わせることができません。

 「正法眼蔵 阿羅漢」に次のように書かれています。

 「己ガ力量ニ随ッテ受用シ、旧業ヲ消遺シ、宿習ヲ融通ス。或ハ余力有レバ、推シテ以テ人ニ及バシ、般若ノ縁ヲ結ビ、自己ノ脚跟ヲ錬磨シテ純熟ス。」(注3)

 阿羅漢(修行の完成者)は古くからの癖を消滅させ(旧業ヲ消遺シ)、長い間の習慣を解消する(宿習ヲ融通ス)といっています。

 ですので「正法眼蔵」にははっきり「本当の自分」というのは寄せ集めの自分を解体した自分であると書かれています。

注1:頼住光子「道元」NHK出版 99頁
注2:頼住光子「道元」NHK出版 参照
注3:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻」金沢文庫