一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

エネルギー=規則性

2010年10月28日 | Weblog
 私たちの眼は規則性がありません。見たものを順番付ける規則性はありません。ただ眼の網膜に映ったものをアットランダムに見ているだけです。

 私たちをとりまく環境をみてみると、みんな規則性があります。「法」は仏教では「軌持」といって、規則を保つ・原理的・外界の対象物となっています。私たちを取り巻くものは、規則性があるといっています。太陽は完全な規則性のもとに動いています。月だって、地球のまわりを、重力や磁力の関係のなかで規則性のもとに動いています。猫だって、完璧に規則性に基づいて動いています。

 だから、眼に規則性が無いというのは変なのです。背景に順番付けるなにかがあるはずなのです。

 ではそもそも規則性というのは何かと考えたら、たとえば文をつくる文法・文体にあたるのではないかと思いあたりました。まず主語をもってきて、次に述語をもってきて、主語の前に形容詞をつけてのように、順番が細かに決められています。また文体というのも、まず最初に主題をもってきて、次にその原因をあげて、次に喩えや具体的な例をもってきて最後に結論をもってくるというように、やはり順番が決まっています。

 では、眼の背景にある眼にみえたものに対して順番をつけるものは何かと考えたら、それは、くるくると変わる私たちの浅知恵ではなく、私たちが持ってるエネルギーだと思っています。エネルギーの蔵である唯識でいえば阿羅耶識のことです。

  なんでエネルギーと規則性というのが同義語かというと、私たちがいろいろな条件下で淘汰されて生き残れたとき、生き残れる規則性を作り上げたから生き残れたわけです。その規則性というのは働きの規則性ということです。Aがこう動いたらBがこう動くというような動きです。働きだからエネルギーが包含されています。その規則性というのは、エネルギーの一大循環の流れです。酸化という猛毒な世界のなかで、酸化に対抗するエネルギーの一大循環の流れを作って生き残れたわけです。

  この酸化に対抗するための規則性が私たちの規則性なので、私たちは一刹那も何かに執着することはできない規則性のなかで生きています。どこかに留まっていれば、酸化されてしまうからです。

 眼自体にはエネルギーがないから、見るもの見る物にに執着します。

 執着しない規則性を可能にするのは阿羅耶識のエネルギーです。

 阿羅耶識のエネルギーがあって、見るものの執着をたちきって、本来見るべきものを見るように順番付けてくれます。

 

 

阿羅耶識を通して

2010年10月13日 | Weblog
 私と猫は同じものをみていても、とらえ方が違うのではないか、と猫をみてるとときどき思うのです。

 たとえば、眼の前においしそうな焼いたサンマがあるとします。目の前にサンマがあるのは、眼があればあきらかに分かります。

 眼があればあきらかに分かるのだけれども、猫は、あきらかに分かる眼より、自分の感知できないこころの根源でもある潜在意識の阿羅耶識のほうの声に耳をかたむけます。

 潜在意識の阿羅耶識は、肉体と心のエネルギーと秩序を保持しています。また身体と一体化し身体に遍満し、融合している識であり心です。この識は実体的にあるものではなく常に刹那に生じ滅して連続して流れている。このことは身体も同時に識と一緒に生じ滅しているものであることを意味します。

 阿羅耶識は、われわれをとりまく環境との交流のなかで刹那刹那のバランスをとりながら自分の身体を維持しています。

 この阿羅耶識が、サンマという眼でとらえた像を、阿羅耶識のなかの秩序・情報と照らし合わせます。その秩序がサンマを食べろという指令をだした場合は、阿羅耶識がサンマをたべるために必要な箇所にエネルギーを配置します。そこではじめて猫はサンマを認識するのだと思います。

 私たち人間は、あきらかに見えるサンマに気をとられて、あ、サンマだ、とすぐ、眼に映った像を即座に認識してしまいます。そうして、サンマは好きだから、食べようと食べはじめます。眼にみえない阿羅耶識なんか完璧に無視しています。

 猫をみていて、いつもなんで目の前にものがあるのに、あたかもものがないかのように振る舞えるんだろうと疑問でした。普通だったら、いつも私のことを眼で追って関心をしめしているのに、獲物がいたりとか見知らぬことがおこったりした場合は、ちらっとも私の存在に関心をしめしません。はじめから、私の存在がないかのようなのです。

 人間だったら、あそこまで完璧に無視できません。少しはチラッと見るなりするはずです。

 今考えると、猫にとって阿羅耶識の指令がない場合は、私の存在がないかのようなのではなく、認識するエネルギーを配置させてないから、私のことを認識してないのです。私はいないのです。猫は、たとえば、カメラで、レンズを通して外のものがフィルムに映っただけで、このフィルムに映った像をさらに見ている認識はないと思うのです。

 物理学の雑誌『Newton』に面白いことが書いてありました。

  『身のまわりをながめてみよう。あなた自身の体がある。あなたが読んでいる「Newton」がある。身につけている服、呼吸で吸い込む空気、外に広がる大地、空にうかぶ雲、そして輝く太陽・・・・。世界はこのように「有」にあふれている。「有」は実ににぎやかで、魅力的だ。
 それにくらべて「無」はどうか。何もないこと、空虚、空っぽ。「有」とは対照的に、「無」とはいかにも退屈なもののように思える。
 しかし、物理学者はそうは考えない。「無」とは、実にダイナミックでエキサイティングなものだというのだ。「無のすべてを知る者は、すべてを知りつくす」(スタンフォードだいがく、レナード・サスカインド博士)ほどだという。もしこれが本当なら、現代物理学がえがく「無」の姿とは、いったいどのようなものなのだろう。』

 「無のすべてを知る者は、すべてを知りつくす」。この「無」というのは、潜在意識の阿羅耶識とみてもいいような気もします。

 顕在はしてないけれども、私たちの根源のエネルギーと秩序を保つ蔵の阿羅耶識。確かに、阿羅耶識は、ダイナミックでエキサイティングかもしれない。