一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

ちからに焦点のこころ

2016年10月10日 | Weblog
 私がこころを間違って捉えていたことに最近気がつきました。前までは、こころというのはそのシチュエーションでわいてきて、そのシチュエーションがなくなれば消えてしまうものだと思ってました。たとえば、怒るのも、何か私を怒らせるものがあるから怒るのであって、その怒らせるものがなくなれば、怒りは消えるのだと。

 でも、こころがちからだとするとちからはシチュエーションが変わっても消えないのではないかと詮索し始めました。津波のようにちからをもって押し寄せてくるものをぱっと消すことはできません。ちからはどこまでも流れていきます。こぶしで誰かを殴ろうとしているちからを途中でパッと消すことはできません。

 私は、そこのところを見落としていたことに気がついたのです。先日20年ぶりくらいに会った人が私がすぐそこにいるのに気がつかないのです。そして、「前は、ふっくらした可愛いお嬢さんだったのに。」と、しきりにいうのです。それって、今は、やせこけたばあさんになったということを言いたいようで、ものすごく落ち込みました。言葉だけの世界だったら、20年もたっているのだから仕方ないな、と笑ってすませられるところでしょうけど、実際には一ヶ月くらいは気が落ち込んで仕方ありませんでした。

 これって、だいぶ前から年を取りたくないというこころがあって、それが少しずつこころのなかに溜まっていたちからがあって、それが、上のシチュエーションでワーッと吹き出してきたのではないかと思うのです。上のシチュエーションもまた、こころのなかに溜まって、将来また似たようなシチュエーションのときもっと大きなちからになって吹き出すのではないかな。

 ちからは消えないと捉えると、ちからをもつこころに私が耐えられるかどうか不安になります。今までのようにちからをもつこころをなめてはいられないな、と感じ始めています。

   

ちからに焦点のこころ

2016年10月01日 | Weblog
新聞を読んでいたら次の文に興味をそそられました。

 「当たり前に就職活動をして、自己分析と自己アピールを繰り返してようやく会社に入って、上から振ってきた仕事を日々こなしながら、役職アップと給料アップを目指す。二重人格的にワークとライフを切り分けて、仕事で溜まったストレスを移動中のスマホゲームやアフターファイブの飲み屋で解消し、週末はテレビで商会されていた流行のお店で買い物をし、食べログ高得点のレストランでおいしい料理を食べ、プライベートライフを満喫することで明日から始まる仕事に備える。」

 これを読んでいて、私がネットを見てるときを連想しました。ネットの1つ目を見て満足を得られないから、またもっと面白そうなの、と、次を見る。そうしているうちに、これだけ時間とエネルギーをかけたのだからどうしてもネットをみてよかったと納得しなければ終われない、とだらだらと見続けてしまう。

 このように、こっちで溜まったストレスをあっちで解消しよう、とするのは、アタマのなせる業かといままでは単純に考えてました。でも、実際ネットを止めようとするときは、そう簡単にやめられないなにかがあるような気がしてきました。アタマで考えてパッと止められるほど単純ではないのです。アタマでは「こんなことをやっていて一体あなたは何を期待してるの?」と早く終わらしてしまいたいんだけれども、止めるのにものすごいちからがいるのです。

 そのちからというのは、最初の仕事で溜まったストレスが次の何かをさせようとするちからを生みだしているのか、それプラスその連鎖反応を止めさせないちからがあるのかはっきりしませんが、でもアタマでは割り切れないもっと深いなにかがそうさせているように思えてなりません。