一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

部分と全体

2009年09月27日 | Weblog
 仏教を勉強していて目からウロコの論理があります。

 部分を合わせれば全体になると思うのが人間の少量の考え
 部分をこわしてこわして逆にいえば部分をこわさなければつかめないのが全体

 クラス会でよく話題になるのがお金とスポーツクラブです。老後にはお金と健康が必要だよね、と何の疑いもなくみんなその問題に邁進しています。私はそれは「部分」をみての行動パターンだと思うのです。お金というエレメントに対して貯金しとこうとか、健康というエレメントに対し、じゃスポーツクラブにいこうという「部分」に対する考えで行動しています。

 良さんはまったく真逆です。すべて手放してあとは坐禅にまかせます。部分的なお金とか健康とかいうエレメントはすべて切り捨てます。

 「部分」というのは部分だけきりとって周りの空気を無視して自分勝手に行動することです。

 老後健康であるためにどうすればいいのか、そうだスポーツクラブに行こうというのは今の瞬間の周りの空気を読まなくても行動できます。

 それより私の知っているお坊さんは本当にまめに動きます。目の前に水がこぼれていたり汚れがあるとぞうきんでさっさっと拭きます。朝早くから起きて夜寝るまで目の前のものをみてこまめによく動くし、人の話も手をぬかず誠実に対応してくれます。

 周りの空気を読んで行動することが、「お金」とか「健康」とかエレメントをうちたてなくても、結果的に全体をつくりあげるのではないかと思わされます。

 
 

マップヘイター

2009年09月19日 | Weblog
 福岡伸一「世界は分けてもわからない」(註1)を読んでいたら興味のある言葉にぶつかりました。

 マップラバーとマップヘイターという言葉です。

 「マップラバーはその名のとおり、地図が大好き。百貨店に行けばまず売り場案内板に直行する。自分の位置と目的の店の位置を定めないと行動がはじまらない。だから「現在地」の赤丸表示が消えてなどいようものならもうそれだけでイライラする。」

 「マップヘイターは、自分の行きたいところに行くのに地図や案内板などを全くたよりにしない。むしろ地図など面倒くさいものは見ない。百貨店に入ると勘だけでやみくもに歩き出し、それでいてちゃんと目的場所を見つけられる。」

 「一見、マップラバーのほうが理知的で、かっこよく見えませんか?しかし、実は、マップラバーこそが、方向オンチで、道に迷いやすい。山で遭難するとしたらまずマップラバーのほう。地図上で自分の位置が定位できないともう生きていけない。どちらへ歩き出していいか皆目わからなくんなってしまう。」

 そして福岡氏は、私たちの身体の60兆個の細胞は究極のマップヘイターだというのです。

 「それぞれの細胞は非常に単純な排他的行動ルールに従って、自分に隣接した細胞とだけ交信し、別の言い方をすれば空気を読み、自分とごく近い周囲との関係性だけを手がかりに、全体を完成させる。しかし、各細胞がこの運動を完成させたとき、鳥瞰的に全体を見下ろすと、そこには絵柄が浮かび上がって見えるのだ。まるで誰かが指揮をしていたかのような秩序をもって。しかし指揮者、つまりマップラバーは、このプロセスの最初から最後までどこにも存在していない。」

 私たちがあたまに持っている地図というのは幸せなになりたいという地図があります。だれも不幸になりたい地図をもっている人はいません。

 でも幸せになりたい地図のとおりに常に自分の位置が定位できることはないでしょう。あたまに描いた地図にないところに迷い込んでしまいます。

 そうするとどちらへ歩き出していいか皆目わからなくなってしまってどうしようどうしようとエネルギーを費やしてしまう。エネルギーを費やしてしまうからよけい正しい判断ができなくなって迷い道の深みにはまってしまうという悪循環におちいります。

 でも細胞の行動という自然が私に地図がなくても生きていけるんだよというヒントを与えてくれています。

 自分とごく近い周囲との関係性だけを手がかりに行動すればいいということです。「正法眼蔵」でも『現成公案』といって(目の前に現に成立しているものが公案すなわち絶対の真実であることの提示。)目の前に見えているものに従って行動しろということは「正法眼蔵」全般にわたって再三再四でてきます。

 パズルピースにたとえて自分のピースに隣接する8つのピースのかたちに合わせて自分のかたちを決めていくということです。

 ただし現実に自分とごく近い周囲の関係性だけを手がかりに行動すればいいということは、すごく難しいことです。周りの空気を読むということは、具体的なかたちではっきりとみえるものではありません。ほとんど勘です。勘なんて千差万別でどれが信じるにたるものかわかりません。

 また自分にごく近い周囲といっても、目の前に現にみえているものが本当の真実のすがたであるかわかりません。自分の色眼鏡でみている間違った姿かもしません。

 でも仏教の祖師方の教えに従って目の前の世界の真実をとらえられる目と、昏まされてもいない散乱してしてもいない自分の勘をもてるようになれば、こころを労さなくても目の前のことだけをみて生活できると思うのです。

註1:福岡伸一「世界は分けてもわからない」講談社現代新書  

生命(いのち)

2009年09月08日 | Weblog
 猫は電気の球がきれたら取り替えるような生き方をしてるのだろうか。

 何かが壊れたり病気になったり問題がおきてから仕方なしに問題に対処するエネルギーがあれば、私たちは円滑に生きていけるのでしょうか。

 それだけのエネルギーがあればいいのであれば、私たちはそんなにエネルギーをつかわなくてもいいはずです。剰ったエネルギーは自分の好き勝手につかうことができるはずです。

 でも私たちの生きている現実の世界はもっと厳しいものだと思います。私たちは家とか冷蔵庫とか電気の球ではなく、生命(いのち)です。

 生命(いのち)とは、一瞬一瞬水の流れのように一瞬たりとも同じものがとどまっていることがなく、古いものと新しいものが入れ替わっています。逆にいえば同じものがとどまっていれば死ぬのです。血だって何秒か流れなければその部分は壊死します。

 だから一瞬一瞬水の流れのように同じものをとどませることがなく、古いものを壊して新しいものを再構築するためには人間本来の十全のエネルギーが必要です。

 私たちの生命(いのち)は電気の球がきれたら取り替えればいいような甘い法のなかには生きてないはずです。やはりエネルギーが漏れてはいけない厳しい法のなかにいると思います。